2007年5月27日 日曜日

助け主が来られた意味

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分45秒

ヨハネによる福音書14章15-17節

 今日は、ペンテコステ、イエス様が復活されて50日目に、約束の聖霊がこの世に来て下さり、教会が生まれた記念すべき日です。目には見えませんが、聖霊とか御霊と呼ばれる助け主なる神様が、私達のところに来て下さった日です。今日は、聖霊が来て下さった意味を学びましょう。

第一に、聖霊は、助け主です(14:16)。
 皆さんは、イエス様が何をするためにお生まれ下さったかご存知ですか。イエス様が来られた目的は、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、死と悪魔を滅ぼして三日目によみがえられるためでした。そして、イエス様が天にお帰りになられると、私達のところに聖霊なる神様が遣わされ、私達を弁護し、助け、励まし、慰め、救いの道に導いて下さるのです。
ヨハネ14:16
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

聖霊は、私達に罪とは何か、天のお父様がどんなに私達を愛して下さっているか、イエス様の十字架の恵みがどんなに偉大な愛なのかを悟らせて下さいます。「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)と言われたように、もしイエス様の十字架と復活がなかったら、聖霊はおいでにならず、来なければ、私達は自分の罪をもったまま永遠の滅びに行くしかなかったのです。
 
 また聖霊は、キリストから与えられた戒めを守るために遣わされ、その戒めとは「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)と語られるように、父なる神様を信じ、愛し、戒めを守る人に聖霊が与えられ、キリストを愛する者として、互いに愛し合うことができるのです。

 この愛は父なる神と子なるキリストの交わりの中に源を発し、私たちが神様の愛の中に生き続けられるように働いて下さると共に、自己を惜しみなく与える愛であり、教会は御霊の助けによってこの愛を、互いの交わりの中で、この世に表わすように求められているのです。

第二に、聖霊は「真理の御霊」です。3つの真理を上げましょう。
1、聖霊が教えてくださる真理は、私たちを罪と滅びから救い出す真理です。真理の御霊は、神様が憎まれる罪が何であるかをはっきり分からせて、罪を心から悲しむことができるようにして下さり、私達を悔い改めに導かれます。そして、イエス様の十字架が私の罪のためだということを教えて、イエス様を喜んで信じる者にして下さいます。

2、御霊は、私達が、イエス様こそ神の子キリストであると信じることが出来るように働いて下さいます。実際「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(Ⅰコリント12・3)。
Ⅰコリント12・3
12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

このように御霊は、キリストの福音の真理を証しし続けることによって、教会をキリストの体として建て上げ、私たちを父なる神と、子なるキリストとの永遠の愛の交わりの内に入(はい)らせて下さいます。

3、真理の御霊は、「わたし(キリスト)についてあかし」(15・26)し、「あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)。つまり、みことばに基づいた正しい価値判断、決定、行動、生活を可能にし、汚れをきよめ、きよい生活を送るように、すべてのことを思い起こさせ、教えて下さいます。そして、「やがて起ころうとしていることを示。」(16・13)して下さいます。
ヨハネ15・26
15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

ヨハネ16・13
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

第三は、いつまでも共におられる神様。それが聖霊様です。2つのことを私達に教えています。
 その1、神を信じ、神を愛し、神の戒めを守る聖霊を受けた人です。真理の御霊は、「いつまでもあなたがたと、ともにおられ」(14:16)、「あなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(ヨハネ14:17)と語るように、キリストは父のみもとに帰られたけれども、聖霊はそばにおられるだけでなく、信じる人の心の中に住んで、内側から教え、励まして下さいます。
ヨハネ14:17
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

そして、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)よ、と約束して下さいます。イエス様を信じるなら、聖霊によって、神様の愛が心に注がれ、どんな時でも私達のハートが温められ、信仰が与えられるのです。
ヘブル13:5
13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

もし自分一人が、どこかに置き去りにされたら寂しいですね。しかし、イエス様は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(14:18)よ、と約束されました。たとえ、私達が忘れ、裏切っても、神は私達を信頼し、永遠に離れず、捨てて、孤児とはなさいません。

確かに、今は目には見えませんが、聖霊なる神様として来られたので、私達が神様を愛するなら、いつでも、どこに行っても、私たちは神様と一緒にいることができるのです。
ヨハネ14:18
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

その2、聖霊を受けていない人です。「世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。」(ヨハネ14:17)。と語るように、真理の御霊を受けることのない、この世の人たちは、人間の知恵でしかキリストを知る術がなく、その努力は無駄となります。
 キリストがこの世を去り、父なる神様のもとに帰るにあたって聖霊様が、助け主として遣わされたのは、キリストの体なる教会を建て上げ、私たちを神との交わりに入らせるための主のご計画でした。
ペンテコステは約束の御霊のご降臨であり、以来御霊は私たちを真理へと導き、互いに愛し合うことにより、宣教の業を助け、世の終わりまで共に働いて下さるのです。この御霊に信頼して、御国の建設のために励みつつ、キリストの栄光のために用いさせて頂きましょう。そのために、キリストを客間にだけお通しするのではなく、すべての部屋に入って頂き、きよめて頂きましょう。

2007年5月22日 火曜日

特別講演会 中野雄一郎牧師のメッセージ

Filed under: 講演会 — 管理人 @ 19時17分24秒

5月18日(金)は、中野雄一郎先生をお迎えしての講演会が行われました。
多くの方に、ご出席、ご聴講いただきありがとうございました。
今より暫くの間、行われたメッセージを配信いたします。
「日本人への絶大な愛」
「敗者復活の人生」
なお、ご聴講には、RealPlayerをお用いください。RealPlayerのダウンロード
中野雄一郎先生のWebページは、マ ウ ン ト ・ オ リ ブ ・ ミ ニ ス ト リ ー ズをご覧ください。沢山の励ましのメッセージを聴くことができます。

2007年5月20日 日曜日

キリストの心を持つ人

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分52秒

コリント人への手紙Ⅰ2章14節-3章3節

 私たちが正しい教会形成を心がけるために何が大切か?このことはいつの時代でも問われる問題です。教会形成を妨げるものとして、教会員相互の分裂・分派があり、その中には自らを知者だと自称し、高ぶって他を見下す者がいることと、その原因は霊的な問題にあることをパウロは、コリントの教会を通して語っています。来週はペンテコステ、聖霊がくだり、教会が建てあげられた記念すべき日を前に、今日は霊における3種類の人間を取り上げ、「キリストの心を持つ人」について考えてみましょう。

第一は、生まれながらの人間です。
 人には、誕生日が一つの人と、二つある人がいます。
一つ目は、お母さんのお腹の中から生まれた、誰にもある誕生日です。でも、もう一つの誕生日は、ある人とない人がいます。

自分の罪が分かって、神様にお詫びをし、イエス様が十字架で私の罪の身代わりに死んでくださったことを信じ、心が新しく生まれ変わって、神の子とされた日が、二つ目の誕生日です。身体の誕生日だけしか知らない人も、二度目の誕生日をもつことができます。聖霊は、私たちを罪から救い、神の子どもとするために、今も働いておられるのです。

この「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。」(1コリント2:14)。「また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは」(1コリント2:14)、この世の知恵によっては理解することができず(2・11~13)、「御霊によって」でなければ「わきまえる」ことが出来ないからです。人は御霊を内にいただかない限りは、御霊の賜物を知ることはできません。
1コリント2:11-13,14
2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

第二は、肉に属する人です。
 「肉に属する人」(1コリント3:1)とは「キリストにある幼子」(1コリント3:1)とあるように、イエス様を信じていても、聖霊に満たされていないので、せっかく御霊を頂いているのに、霊の人にふさわしく成長していない人です。そして、肉の人は、神様を知らないわけではないのですが、神様中心ではなく自己中心な人で、イエス様の心を持っていません。
1コリント3:1
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

 具体的には、自分の知恵を誇り分派を起こす人々を指します(3・4、5)。彼らは「肉に属する人」(1コリント3:1)であり、パウロの与える霊的な食物を消化する力がありません。幼いままの霊的状態に留まっているので、わがまま、えこひいき、告げ口、憎しみ、ねたみ、いじめ、自慢、教会の中で「ねたみや争い」(1コリント3:3)に明け暮れ、「ただの人のように」(1コリント3:3)振る舞い、教会を乱す人で、トラブル・メーカーとは、こういう人を言います。私達も注意したいものです。
1コリント3:3,4,5
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
3:4 ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
3:5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

第三は、御霊を受けている人です。
霊の人とは「御霊を受けている人」(1コリント2:15)のことで「すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」(1コリント2:15)。御霊を内にいただいた霊の人が御霊に属するすべてのことについて判断をする際には、この世の知恵を持ち込む必要はなく、内にいます御霊御自身が判断をして下さるからです。
1コリント2:14,15,16
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

 御霊を受けている霊の人のことをパウロは、「キリストの心があるのです。」(1コリント2:16)と述べています。霊の人はキリストの心を知るだけでなく内に持つのです。そしてキリストの心を持つ人は、霊に属するすべてのことを判断するのです。

霊の人は聖霊に満たされているので、イエス様と同じ愛の心を持っています。赦す心、人を思いやる心、人を導き、励ましたいと願う心があります。イエス様を心の中にお迎えしているので、恐れはありません。どんなことが起こっても喜ぶ方法を知っているし、何があっても感謝することができます。そして、イエス様のことを伝えたいという願いが起こされます。

 聖霊を受けるということは、個人的な体験であると共に、教会の交わりと、教会の一切の働きは、個人的な体験をした皆さん一人一人が、御霊によってなされています。ゆえに御霊に属する霊の人は教会の徳を高め、教会の一致と成長をもたらすことのために有益な者となります。ですから、教会が教会として正しく一致し、宣教のわざをするためには、キリストの枝としての自覚と、力量にふさわしく働く力によって結び合わされ、一人一人が御霊に満たされ、御霊に自らを明け渡した霊の人として歩むことが重要になってきます。
人が教会においてどのように生きているか。それがその人が霊の人であるか、それとも肉に属する者であるかの判断の大切な基準となります。

第四は、キリストの心を持つ人です。
 イエス様は少しも悪くないのに、私たちのような醜い心の者の身代わりになって、十字架で死んでくださいました。罪が分からないで滅んで行く私たちを見過ごしにされないで、自分の方から走り寄って助けてくださるのが、イエス様の心です。自分が傷を受けること、痛みを負うことなど計算しないで与える愛です。私たちは、イエス様のお心には程遠い者です。また、自分の努力でイエス様のようにすることはできません。

 けれども、ペンテコステに降られた聖霊が私たちの心に住まわれるなら、イエス様の心を与えてくださるのです。きよい神様は、汚いままの心にお宿りなさることはできません。罪を悔い改めて、イエス様の血潮によって洗われ、きよくされた心にお住まいになります。

 まだ二度目の誕生日を迎えていない人は、イエス様を信じましょう。まだ自分は肉の人だな、と思った人は、悔い改めて聖霊を心の中心に迎えましょう。そして、皆が霊の人にされて、神様の御心を行う人にしていただきましょう。聖霊は、信じて求め、従う人の心に来て下さいますから、御霊に満たされ、キリストの心を私達の心の内に頂いて、謙遜と柔和をもって、教会を建て上げるために労する者とされましょう。

2007年5月15日 火曜日

5月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 0時00分11秒

あざける、とは「ばかにして笑う」ことです。高校時代クラスに休み時間や昼休みも勉強をしている人がいました。でも成績はぱっとしません。まわりはガリ勉と呼んでばかにしていました。しかし半世紀近くたってみると、立派になっている人がいます。目標があって、励んでいたのです。あざけられてもからかわれても、黙々と勉強をしていた彼の姿は、なぜか今も目に焼き付いています。まわりの仲間と一緒になって彼を笑っていた自分の愚かさを、ずいぶん後になって悟ったものです。時間が経過し、人生の経験を重ねる中でやっと見えてくるものがあります。その前にいくら忠告されても、反発をしたり憎んだりしてしまいます。しかし、目標に向かってひたむきに努力する姿は模範になります。
「あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。」
(旧約聖書箴言9章7節)

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