家庭・社会で平和をつくる者
マタイの福音書5章9節、ガラテヤ人への手紙5章19-23節
5月3日の信濃毎日新聞に、5月2日北海道の路上で女性が、背後から男にナイフで背中を刺され、死亡した記事がありました。犯人は32才で、動機は「仕事でストレスがたまり、知らない人を刺した」と言いました。今こそ、まことの神に立ち返り、心に神様との平和を体験する必要があります。真の平和は私の心に平和があるかを2回学びましたが、今日は、社会を考える時、社会は夫婦から始まりますから、夫婦に平和があるかということで、平和を家庭や社会でどう築いていくかを考えてみましょう。
神との平和、神の平和を持つだけではまだ不十分です。この垂直的な神との関係は、同時に水平的な外への働きかけを備えていなければなりません。神様のみこころは、私達が「心を尽して主なる神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:37-39)と教えています。個人の信仰もまた、社会に対する働きかけがないかぎりは、無益なものなのとなり、私達の信仰もむなしいままに終わってしまいます。
マタイ22:37-39
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
第一に、私達は、家庭で平和をつくり出す人となることができます。
近代的な機械や交通、社会的変化によって、私たちの家庭生活はすっかり変り、旧式な隣近所の集りや家族の団らん、家族の礼拝などは、古めかしい過去の遺物になってしまったように見えます。
結婚式では、誓約の後、牧師が「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と宣言します。神は、結婚における第三の当事者なのではないでしょうか。結婚においてこそ、神が考えられ、その結婚から生れる家庭生活の中に神をお迎えしなければならないのではないでしょうか。神が初めに二人を合されたのであるなら、その家庭生活においても、引き続いて神の存在が自覚されなければなりません。
たくさんの夫婦が、もしもっとよい家があったら、よりよい仕事があったら、もっと違った場所に住めたら、家庭生活がもっと幸福になるだろうに、と思っています。しかし、それは間違いです。また、今日多くの家庭が、神を家庭生活の外へと追いやつてしまったために、暗礁に乗り上げています。
家庭での幸福の秘訣は、婚姻の誓約の時の第三の当事者である神に、家庭における正しい位置を占めて頂くことと、家庭生活での絶え間ない人間同士の不一致に対しては、家庭を統一する力が必要なのです。生ける神こそ、その力です。神との平和を持ちなさい。そうすれば、家庭を平和にすることができるでしょう。
第二に、私達は、社会で平和をつくり出す者になることができます。
私たちの住む社会は、中傷、誹謗(ひぼう)、陰口で満ちています。聖書は「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。……敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」(ガラテヤ5:19-21)だと語っています。根本的な理由は、神との間違った関係なのです。
ガラテヤ5:19-21
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
では、どうしたら私たちはこの社会において、平和をつくり出す者になれるのでしょうか。
公式は簡単です。皆さん一人一人が、心に神との平和をつくることです。そうすれば、社会においても平和であることができるでしょう。人間の本性が結ぶ実は、不一致であり、争いですが、
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22,23)。
ガラテヤ5:22,23
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
私たちの悩みのもとは、神を抜きにして良い社会をつくり上げようと努力したことにあります。私たちはいろいろな場所から聖書を取り除いてしまいました。学校や教育の場、私たちの会話から、神を追い出してしまったのです。その結果、社会から礼節は消失し、正気とは思えないような態度や振る舞いが支配しました。平和と礼儀作法とは、社会において個人個人がもう一度神に立ち返り、正当な位置に神を迎え入れることによって、回復されます。
第三は、平和を確立するための唯一の方法は何かです。
それは、個人としての人間が、神の平和を知ることです。私は、いろいろな方法で努力している世界平和のための運動を毛嫌いしているわけではありません。しかしそのような平和は、その運動の中心に霊的な力がない限り平和を築けないことを、歴史が証明していることを私達は知っています。私は、犯罪が食い止められるようにと祈るのと同様に、戦争が終るようにと祈ります。しかし、犯罪も戦争も共に、その根本原因は人間性の本来の罪深さであると聖書は語っています。なぜ人間は、それを認めず、かたくなにこばみ続けるのでしょうか。
イエスはニコデモに「人は、新しく生まれなければ」(ヨハネ3:3)と言われました。イエスはこの時、一人の偉い学者だけに話しかけられたのではなく、私達すべての人に話しかけられたのです。人が生れ変って神と和解するまでは、世界は生れ変らないことを示唆しています。
ヨハネ3:3
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
第四は、平和をつくる最大の秘訣です。
平和をつくり出すことは崇高な天職です。けれども人は独力では平和をつくり出すことはできません。画家が絵筆なしで絵を描くことができないのと同様に、平和をつくり出す人になるためには、平和を与える方を知らなければなりません。地上に平和をもたらすためには、「私たちの平和の君」なるイエス様を知らなければなりません。
イエスは弟子たちに、物質的な遺産は残しませんでした。イエス様が死んだ時、持っていたものといえば、ローマの兵士たちの手に返した衣、弟子ヨハネに託された母親、アリマタヤのヨセフに与えられた御自分のからだ、そして彼の父なる神にゆだねられたその御霊でした。
しかしイエスは、イエス様ご自身の後に従って来る人々に、金よりも高価で、広大な領土よりも永続し、大理石の宮殿よりも、人が欲しがる遺産として「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と私達に平和を残されたのです。
人は、キリスト教はかたよりすぎると言うでしょう。しかし、罪悪は満ちています。それは心の動機と生まれながらの罪の性質があるからです。それを取り除くには、イエス・キリストの十字架の血による罪の赦しと神との和解以外にありません。それ抜きに平和憲法を語れません。
人は、自分の知恵・知識・教養を誇り、独力で平和を作ろうとしますが、かえって争いを引き起こす結果となります。しかし、私達が自分の弱さを認め、神様ご自身を心のうちにお迎えするなら、私達は、神と共に、神様が与えて下さる平和をつくるだけで、平和を作り出すものとなれるのです。そして、家庭・社会における幸福のために、信仰によって動機付けられた、神の愛に根ざし、愛に基礎を置いた歩みをさせて頂きましょう(エペソ3:17)。
エペソ3:17
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
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