2007年6月24日 日曜日

義のために迫害されている者(その1)

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分40秒

マタイ5:10-12,Ⅱコリント11:22-30

 今日は、マタイ5:10節の「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」から、義のためになぜ迫害されるのか考えてみましょう。

 迫害されるのが好きだという人はいないでしょう。よほどの変人か気が狂っている人でない限り、他の人と平和にやっていきたいと思います。しかし残念なことに、昔から神に従った人、神とともに歩んだ人は迫害されてきました。

 先ほど読んで頂きました箇所は、パウロに対する迫害が記されていますが、教会の歴史も迫害と殉教の歴史でした。

第一は、「迫害されているのは、どんな人か」です。
パウロは、「かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。」(ガラテヤ4:29)。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(テモテ後3:12)と。

ヨハネも「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」(1ヨハネ3:13,14)と教えています。あたかも、兄弟たち、即ちキリスト者たちは、死から命に移された人々以外には、誰からも愛されるはずはないのだと、ヨハネは言っているかのようです。

更に、イエス様は、ヨハネ15:18-20で、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。」(ヨハ15:18-20)と語るように、迫害されているのは、義しき人々、つまり「御霊によって生まれた者」(ガラテヤ4:29)であり、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者」(テモテ後3:12)であり、「死からいのちに移った」(1ヨハネ3:13,14)人々であり、「世のものではな」い人々(ヨハネ15:18-20)であり、柔和にして心やさしく、へりくだり(マタイ11:28)、神を求めて悲しみ、神に似んとして渇く(マタイ5:4,6)人々であり、神と隣人を愛する人々であり、機会あるごとに、すべての人に善をなす人々だと聖書は語っています。

第二は、「なぜキリスト者は迫害されるのでしょうか」。
それは「義のため」(マタ5:10)であり、義しき人々だからです。義しい人が迫害されるなんて、皆さん考えられますか。しかし私達の心には、いい加減な人、不真面目な人を見ると、ほっとする心があり、あまりに義しい人だと反抗したり、窮屈で、とっつきにくい、かたぐるしい、そして、クリスチャンは弱い人、意気地なし、陰気で、重々しい、自分達と同じ種類の人間以外は、受け入れがたいという暗いイメージがあります。
マタイ5:10
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

キリスト者は、憐みある人、すなわち、悪しき人々や恩知らずの人々をも愛し、無抵抗主義で平和をつくり、あらゆる機会を用いて、すべての人に善をなす、男女平等・人格尊重・戦争否定、これらはすべて人間の生きる権利であり、基本的人権ですが、人間の罪ゆえ否定され、キリスト者は、万の物の改まる時まで、迫害にあうでしょう。

人は「もしキリスト者が、自分たちの宗教を、自分たちだけにとどめておくならば、我慢もできよう。しかしあの連中が、ある事柄に関しては、かなりよくやっていることは本当だ。ある貧しい人たちを救助してもいる。しかし、これもまた、自分たちの仲間に、一人でも多くひきいれるためでしかない。」と言うでしょう。

そして、神の国がひろがりゆけばゆく程、平和をつくり出す人々は、一層謙遜と柔和、その他の神的な気質を普及させる結果となり、それによってキリスト者に一層激しく怒り、迫害するでしょう。そうなると、ますます福音が広められる結果となることを歴史が証明しています。何と不思議な奇跡でしょう。神様のみ業としか言いようがありません。

第三は、Ⅱコリント11:28-30でのパウロによる、迫害から4つのことを学ぶことができます(2コリント11:28-30)。
その1、2コリント11:28,29で、イエスの弟子として人生を送ることは、外的・肉体的苦難だけでなく、ある意味では、もっと苦しい心理的・精神的苦しみがあることを思わされます。
2コリント11:28-30
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

キリスト教という宗教や信仰を、教養人のアクセサリーか、美しいロマチックなものと考えている人がいますが、クリスチャンには、激しい霊の戦いがあるということを、またクリスチャン人生は、社会悪に対して妥協しない真の心の強さと、十字架を背負って歩む苦難の生涯(マタイ16:24)でもあることを心にとめましょう。

その2、29節でパウロは、「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(2コリント11:29)と言います。ここで、パウロは自分だって血も涙もある普通の人間で、どんな患難にもほほえんで通れるような、スーパーマンではないのだと言っているのです。

その3、パウロは、確かにキリストのために受けた患難の大きさを誇る
ことはできましたが、決して英雄的な気分であったのではなく、弱く、痛んでいたのだと正直に告白しました(29)。ですから、もし、誇る何物かがあるとすれば、その時に経験しつつある自分の弱さ以外の何物でもないというのです(30)。その無力さの自覚が、キリストへの全面的信頼へと導いたのです(2コリント12:10)。
2コリント12:10
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 苦難・困難・迫害に遭遇した時、人はますます神に近づき、信頼して歩むか、神から離れるかの選択を迫られます。私達も躊躇しないで、神に近づき、神との確固たる信頼関係を築きたいものです。

その4、なぜ義のために迫害されることが幸いなのでしょう。パウロは常に迫害の中にあっても、天を見上げ、み国を望みました。迫害こそ、私たちが天国の市民であることのしるしなのです。もしキリストを信じるゆえに困難や迫害に会っているなら、どうぞ勇気を奮い起こして下さい。その時こそ、イエス様が共におられることを実感するでしょう。

そのように、パウロと同様に、私達もキリストと出合う前は、自分の強さを誇り、立身出世を求めていましたが、キリストと出合い、苦難・迫害を経験することによって、自分のうちにある弱さを知り、神を一層身近かに、いや主が共におられる経験をすることにより、キリストへの全幅の信頼と、弱い立場にいる人々と互いに愛し合う心の絆をもって、み国を目指して歩ませて頂きましょう。

2007年6月17日 日曜日

永遠のいのちの絆

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分38秒

マタイ28:20、ヨハネ14:3

 S姉が天に帰られて1ヶ月が経とうとしています。S姉の何よりの願い、それは家族の救いと天国への希望でした。それは、昭和42年に夫と死別し、女手一つで4人の娘さんを立派に育て上げ、また戦前から戦後の苦しい中を通られ、生命の大切さを知るゆえの願いだと思います。そういう中で、S姉は、ご長女Kさんの献身的なご介護とご親族を始め、多くの方々・かわいいお孫さんたちの愛につつまれて、89年のご生涯を全うされ、今は愛するイエス様のみもとに帰られました。

今日は永遠のいのちの絆について共に考えてみましょう。

第一は、「悔い残さないように」です。

新聞に「悔い残さないように」という投書が載っていましたのでお読みします。

「中学2年生の時に、友人が亡くなりました。とても元気な子でした・・。伝えたい事があったのに、『いつか言えばいいや』と考えた私は伝えないまま、それきり会えなくなってしまいました。

 悔しくて、悲しくて、ひたすり泣きました。泣いたところで、その人が帰ってくる訳でもなく、悲しみが軽減される訳でもない。わかっていましたが、泣くことしかできませんでした。

 私はその時『言いたいことは言えるうちに言う。やりたいことはできるうちにやる』と決めました。」

 普通「死」について考えるのは嫌なことでしょう。でも、「死」はどんな人にも平等に訪れます。そしてそれはいつ訪れるかわかりません。なのに「死」について全く考えないのもおかしいと思います。

 少しだけ今の自分を見つめ直してみませんか?「今のままでいいのかな?」って。その時がきた時、「残る悔いが少しでも減るように」と。

第二は、死の現実の厳しさです。

死の現実の厳しさは誰しもわかっています。しかし、あまりの厳しさゆえに、その場面に直面していない時には、できるだけ考えないようにしているのかも知れません。

ただ、そうは言っても、誰しもが必ず向き合わなければならない時が来るのです。自らの死、そして、愛する人の死、というようにです。ですから、死について、いつも私達は、深く心に留めている必要があるのではないでしょうか。

第三は、永遠のいのちの絆で結ばれる時です。

神の御子、イエス・キリストは、現実に存在する死に痛む者の悲しみに、涙を流して下さいました(ヨハネ11:35)。そしてその死に真っ向から立ち向かい、十字架の死とよみがえりによって、死に対する勝利をもたらして下さいました。

ヨハネ11:35

11:35 イエスは涙を流された。

よみがえられたイエス様は弟子たちに、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28:20)と語って下さいました。イエス様にあって与えられるいのちの絆は、死の壁をも破るということです。また、私達がよみがえられたイエス様の愛のみ手の中にいることの幸いの約束と証明でもあります。

マタイ28:20

28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ですから、イエス様が造って下さった、いのちの絆で結ばれる時、永遠の別れという言葉はなくなり、悲しみの中に永遠の希望の安らぎが与えられるのです。

第四は、天国はどういう所、それは「イエス様のおられる所」です

天国とはどういう所かと、人はいろいろ想像します。花園のような所であるとか、きれいな川が流れているとかいうようにです。聖書にも、そこは「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださり」、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(ヨハネ黙示録21:4節)所であると書かれています。

ヨハネ黙示録21:4

21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 それもすばらしいことですが、天国が天国である最も幸いな理由は、イエス様がそこにおられることにあります。それは、イエス様が十字架にかかられる前に語られた「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)という言葉によって明らかです。

ヨハネ14:3

14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 私達の愛する「イエス様のおられる所、そこが天国です。そこでイエス様と一緒にいることが最も幸いなことである」とは、クリスチャンの確信です。

また、皆さんは天国で「顔と顔とを合わせて」(1コリント13:12)話をしてみたい人はいますか。私はたくさんいますが、先ずイエス様にお会いしたい。その日を今か今かとおどる思いで待っています。死ぬとは、天に帰ることであり、私達の「ふるさとは天」(ヘブル 11:16)であることと、やがて「顔と顔とを合わせて見る」(1コリント13:12)ことのできる所、そしてSさん、Aさんに会える。それは夢ではなく、実現可能なことであると信じています。それが天国です。天国とはそういう所なのです。

 あるかないか、どこにあるのかわかられない天国ではなく、天国は確かにあり、私達の希望であり、ゴールです。希望は失望で終わりません。必ず実現します。

1コリント13:12

13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

ヘブル11:16

11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

皆さんも、このイエス様を信じるなら、世の終わりまで、いつも共にいて下さるイエス様によって、どんな時にも、決して切れることのない、いのちの絆によって結ばれることの幸いを味わうことができるのです。

 そしていのちの絆が結ばれる時、私達とイエス様は、永遠のいのちの絆によってつながり、天国への道にもつながるのです。唯一天からくだられ、天にのぼられたお方が天国の鍵を握っています。そのお方こそ、イエス・キリストです。そのお方を信じ、天国への道を踏み外すことなく、信仰と確信をもって歩ませて頂きましょう。

2007年6月15日 金曜日

2007年6月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 0時00分45秒

6月上旬に引き続いて第二回目です。資本主義社会では、金こそが力です。そしてその力を得るためには、ウソは必要悪とされている傾向があります。しかし、お金にすべての価値を見いだそうとする考え方は、本当に幸せなものと言えるのでしようか。いったい、私たちは、何を信じればよいのでしょうか。金がすべてだという価値観にとらわれ、正しい生き方を見失っている現代人に必要なことは、真理である聖書の価値観を取り戻すことではないでしょうか。そうすれば、正直者が幸せになる、本当に幸せな社会が生まれるのではないでしょうか。あなたも真理を聖書から見つけて頂き、曖昧な人生から、土台をすえた人生を見つけて下さい。そうすれば、あなたの人生を輝いたものとあるでしょう。
「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(旧約聖書箴言2章21節)

2007年6月11日 月曜日

オンギジャンイ讃美宣教団ゴスペルコンサート

Filed under: 新着情報 — 管理人 @ 0時11分50秒

今年も、韓国からの讃美ゲスト「オンギジャンイ讃美宣教団」を迎えて、ゴスペルコンサートを開催いたします。ゴスペル(讃美)は、この世界を造られた創造主を讃美するものです。
彼らの心からの神に対する感謝と喜びの歌を、ご一緒に聞きませんか?
入場は無料です。

日時:2007年7月4日(水) 午後7時30分から
場所:杏の里教会礼拝堂
オンギジャンイコンサートパンフレット

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