2007年6月17日 日曜日

永遠のいのちの絆

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分38秒

マタイ28:20、ヨハネ14:3

 S姉が天に帰られて1ヶ月が経とうとしています。S姉の何よりの願い、それは家族の救いと天国への希望でした。それは、昭和42年に夫と死別し、女手一つで4人の娘さんを立派に育て上げ、また戦前から戦後の苦しい中を通られ、生命の大切さを知るゆえの願いだと思います。そういう中で、S姉は、ご長女Kさんの献身的なご介護とご親族を始め、多くの方々・かわいいお孫さんたちの愛につつまれて、89年のご生涯を全うされ、今は愛するイエス様のみもとに帰られました。

今日は永遠のいのちの絆について共に考えてみましょう。

第一は、「悔い残さないように」です。

新聞に「悔い残さないように」という投書が載っていましたのでお読みします。

「中学2年生の時に、友人が亡くなりました。とても元気な子でした・・。伝えたい事があったのに、『いつか言えばいいや』と考えた私は伝えないまま、それきり会えなくなってしまいました。

 悔しくて、悲しくて、ひたすり泣きました。泣いたところで、その人が帰ってくる訳でもなく、悲しみが軽減される訳でもない。わかっていましたが、泣くことしかできませんでした。

 私はその時『言いたいことは言えるうちに言う。やりたいことはできるうちにやる』と決めました。」

 普通「死」について考えるのは嫌なことでしょう。でも、「死」はどんな人にも平等に訪れます。そしてそれはいつ訪れるかわかりません。なのに「死」について全く考えないのもおかしいと思います。

 少しだけ今の自分を見つめ直してみませんか?「今のままでいいのかな?」って。その時がきた時、「残る悔いが少しでも減るように」と。

第二は、死の現実の厳しさです。

死の現実の厳しさは誰しもわかっています。しかし、あまりの厳しさゆえに、その場面に直面していない時には、できるだけ考えないようにしているのかも知れません。

ただ、そうは言っても、誰しもが必ず向き合わなければならない時が来るのです。自らの死、そして、愛する人の死、というようにです。ですから、死について、いつも私達は、深く心に留めている必要があるのではないでしょうか。

第三は、永遠のいのちの絆で結ばれる時です。

神の御子、イエス・キリストは、現実に存在する死に痛む者の悲しみに、涙を流して下さいました(ヨハネ11:35)。そしてその死に真っ向から立ち向かい、十字架の死とよみがえりによって、死に対する勝利をもたらして下さいました。

ヨハネ11:35

11:35 イエスは涙を流された。

よみがえられたイエス様は弟子たちに、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28:20)と語って下さいました。イエス様にあって与えられるいのちの絆は、死の壁をも破るということです。また、私達がよみがえられたイエス様の愛のみ手の中にいることの幸いの約束と証明でもあります。

マタイ28:20

28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ですから、イエス様が造って下さった、いのちの絆で結ばれる時、永遠の別れという言葉はなくなり、悲しみの中に永遠の希望の安らぎが与えられるのです。

第四は、天国はどういう所、それは「イエス様のおられる所」です

天国とはどういう所かと、人はいろいろ想像します。花園のような所であるとか、きれいな川が流れているとかいうようにです。聖書にも、そこは「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださり」、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(ヨハネ黙示録21:4節)所であると書かれています。

ヨハネ黙示録21:4

21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 それもすばらしいことですが、天国が天国である最も幸いな理由は、イエス様がそこにおられることにあります。それは、イエス様が十字架にかかられる前に語られた「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)という言葉によって明らかです。

ヨハネ14:3

14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 私達の愛する「イエス様のおられる所、そこが天国です。そこでイエス様と一緒にいることが最も幸いなことである」とは、クリスチャンの確信です。

また、皆さんは天国で「顔と顔とを合わせて」(1コリント13:12)話をしてみたい人はいますか。私はたくさんいますが、先ずイエス様にお会いしたい。その日を今か今かとおどる思いで待っています。死ぬとは、天に帰ることであり、私達の「ふるさとは天」(ヘブル 11:16)であることと、やがて「顔と顔とを合わせて見る」(1コリント13:12)ことのできる所、そしてSさん、Aさんに会える。それは夢ではなく、実現可能なことであると信じています。それが天国です。天国とはそういう所なのです。

 あるかないか、どこにあるのかわかられない天国ではなく、天国は確かにあり、私達の希望であり、ゴールです。希望は失望で終わりません。必ず実現します。

1コリント13:12

13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

ヘブル11:16

11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

皆さんも、このイエス様を信じるなら、世の終わりまで、いつも共にいて下さるイエス様によって、どんな時にも、決して切れることのない、いのちの絆によって結ばれることの幸いを味わうことができるのです。

 そしていのちの絆が結ばれる時、私達とイエス様は、永遠のいのちの絆によってつながり、天国への道にもつながるのです。唯一天からくだられ、天にのぼられたお方が天国の鍵を握っています。そのお方こそ、イエス・キリストです。そのお方を信じ、天国への道を踏み外すことなく、信仰と確信をもって歩ませて頂きましょう。

HTML convert time: 0.674 sec. Powered by WordPress ME