義のために迫害されている者(その1)
マタイ5:10-12,Ⅱコリント11:22-30
今日は、マタイ5:10節の「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」から、義のためになぜ迫害されるのか考えてみましょう。
迫害されるのが好きだという人はいないでしょう。よほどの変人か気が狂っている人でない限り、他の人と平和にやっていきたいと思います。しかし残念なことに、昔から神に従った人、神とともに歩んだ人は迫害されてきました。
先ほど読んで頂きました箇所は、パウロに対する迫害が記されていますが、教会の歴史も迫害と殉教の歴史でした。
第一は、「迫害されているのは、どんな人か」です。
パウロは、「かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。」(ガラテヤ4:29)。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(テモテ後3:12)と。
ヨハネも「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」(1ヨハネ3:13,14)と教えています。あたかも、兄弟たち、即ちキリスト者たちは、死から命に移された人々以外には、誰からも愛されるはずはないのだと、ヨハネは言っているかのようです。
更に、イエス様は、ヨハネ15:18-20で、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。」(ヨハ15:18-20)と語るように、迫害されているのは、義しき人々、つまり「御霊によって生まれた者」(ガラテヤ4:29)であり、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者」(テモテ後3:12)であり、「死からいのちに移った」(1ヨハネ3:13,14)人々であり、「世のものではな」い人々(ヨハネ15:18-20)であり、柔和にして心やさしく、へりくだり(マタイ11:28)、神を求めて悲しみ、神に似んとして渇く(マタイ5:4,6)人々であり、神と隣人を愛する人々であり、機会あるごとに、すべての人に善をなす人々だと聖書は語っています。
第二は、「なぜキリスト者は迫害されるのでしょうか」。
それは「義のため」(マタ5:10)であり、義しき人々だからです。義しい人が迫害されるなんて、皆さん考えられますか。しかし私達の心には、いい加減な人、不真面目な人を見ると、ほっとする心があり、あまりに義しい人だと反抗したり、窮屈で、とっつきにくい、かたぐるしい、そして、クリスチャンは弱い人、意気地なし、陰気で、重々しい、自分達と同じ種類の人間以外は、受け入れがたいという暗いイメージがあります。
マタイ5:10
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
キリスト者は、憐みある人、すなわち、悪しき人々や恩知らずの人々をも愛し、無抵抗主義で平和をつくり、あらゆる機会を用いて、すべての人に善をなす、男女平等・人格尊重・戦争否定、これらはすべて人間の生きる権利であり、基本的人権ですが、人間の罪ゆえ否定され、キリスト者は、万の物の改まる時まで、迫害にあうでしょう。
人は「もしキリスト者が、自分たちの宗教を、自分たちだけにとどめておくならば、我慢もできよう。しかしあの連中が、ある事柄に関しては、かなりよくやっていることは本当だ。ある貧しい人たちを救助してもいる。しかし、これもまた、自分たちの仲間に、一人でも多くひきいれるためでしかない。」と言うでしょう。
そして、神の国がひろがりゆけばゆく程、平和をつくり出す人々は、一層謙遜と柔和、その他の神的な気質を普及させる結果となり、それによってキリスト者に一層激しく怒り、迫害するでしょう。そうなると、ますます福音が広められる結果となることを歴史が証明しています。何と不思議な奇跡でしょう。神様のみ業としか言いようがありません。
第三は、Ⅱコリント11:28-30でのパウロによる、迫害から4つのことを学ぶことができます(2コリント11:28-30)。
その1、2コリント11:28,29で、イエスの弟子として人生を送ることは、外的・肉体的苦難だけでなく、ある意味では、もっと苦しい心理的・精神的苦しみがあることを思わされます。
2コリント11:28-30
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
キリスト教という宗教や信仰を、教養人のアクセサリーか、美しいロマチックなものと考えている人がいますが、クリスチャンには、激しい霊の戦いがあるということを、またクリスチャン人生は、社会悪に対して妥協しない真の心の強さと、十字架を背負って歩む苦難の生涯(マタイ16:24)でもあることを心にとめましょう。
その2、29節でパウロは、「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(2コリント11:29)と言います。ここで、パウロは自分だって血も涙もある普通の人間で、どんな患難にもほほえんで通れるような、スーパーマンではないのだと言っているのです。
その3、パウロは、確かにキリストのために受けた患難の大きさを誇る
ことはできましたが、決して英雄的な気分であったのではなく、弱く、痛んでいたのだと正直に告白しました(29)。ですから、もし、誇る何物かがあるとすれば、その時に経験しつつある自分の弱さ以外の何物でもないというのです(30)。その無力さの自覚が、キリストへの全面的信頼へと導いたのです(2コリント12:10)。
2コリント12:10
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
苦難・困難・迫害に遭遇した時、人はますます神に近づき、信頼して歩むか、神から離れるかの選択を迫られます。私達も躊躇しないで、神に近づき、神との確固たる信頼関係を築きたいものです。
その4、なぜ義のために迫害されることが幸いなのでしょう。パウロは常に迫害の中にあっても、天を見上げ、み国を望みました。迫害こそ、私たちが天国の市民であることのしるしなのです。もしキリストを信じるゆえに困難や迫害に会っているなら、どうぞ勇気を奮い起こして下さい。その時こそ、イエス様が共におられることを実感するでしょう。
そのように、パウロと同様に、私達もキリストと出合う前は、自分の強さを誇り、立身出世を求めていましたが、キリストと出合い、苦難・迫害を経験することによって、自分のうちにある弱さを知り、神を一層身近かに、いや主が共におられる経験をすることにより、キリストへの全幅の信頼と、弱い立場にいる人々と互いに愛し合う心の絆をもって、み国を目指して歩ませて頂きましょう。
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