2007年7月29日 日曜日

一つだけよくなかったものがある

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分13秒

創世記1:31,2:18-23

 今日は、「一つだけよくなかったものがある」ことを通して、結婚を制定された神の教えを創世記から考えてみましょう。
 皆さんに質問します。皆さんは、結婚とか性について家庭で話し合ったことがありますか。ある方。そうですか。私は家庭教育の一つとして、夫婦のなれそめから、結婚について話し合って頂ければと考えます。
結婚が制定されたのは,罪が入る前の2章です。つまり結婚とは、神によるきよい導きと結び付きといえます。

第一は、一つだけよくなかったものがあったということです。
 天地創造には,宇宙のからくりがあります。創世記1:31で「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」というほどに,この世界は完璧な秩序をもって完成しました。この完成された世界には,当然人間も含まれていましたが,創世記2章18節で,神は「人がひとりでいるのは良くない」と思われたのです。つまり一つだけよくないものがあったのです。それが「人がひとりで存在している」事でした。そして、エデンの園で起こった最大の出来事として、ふさわしい助け手として「エバ」が誕生し,二人は夫婦となったのです。それをもって天地創造の業が完結したのです。そうでなければ、神の業は完結しなかったのです。それほどに、結婚は素晴らしく、神の業の一つであり,人間の完成は,夫婦にあると言えます。
創世記2:18
2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

 皆さん、結婚そのものをどう理解しているかが重要で、もし、夫婦が,結婚をただの偶発的に起こった、好きという感情的な出来事と見るなら,結婚生活もそうなるでしょう。しかし、もし二人が、結婚は,天地創造の業の完成のために不可欠な要素であり、神が定めた秩序であり、宇宙が健全に存続していく上で必要であるという視点に立つなら,結婚生活は,個人的な問題以上のものとなり、結婚が非常に尊いものと認識するでしょう。その秩序が崩壊した時,家庭・結婚生活・夫婦関係が崩壊し、その犠牲は,環境を選ぶ事の出来ない子供達である事を,親や大人達は知る必要があります。

第二に、独身、つまり一人でいるのが人間として不完全なのかです。
 いいえ、神は一人一人を完成品として造られました。ですから、独身であっても、なくても,神によって造られた最高傑作品ですが,二人になった時,完全が完成の作品となるのです。絵と額縁を考えて見て下さい。それぞれが完成され,素晴らしいものとなりましたが、二つのものが一つになった時,完全がさらに完成へと向かうのです。ただ、神のこころに従って、祈りつつ、結婚して下さい。

第三に、エバが造られた目的は、ふさわしい助け手としてでしたが、では、助け手とは何かです。
 ヘブライ語では「サポーター」という意味の言葉です。サポーターとは,力づける助け手ということです。
 男性の最高のビタミンは「賞賛」です。つまり、ほめ、力づけてあげることです。特に男性は、サポーターの声援によって頑張れるのです。また多くの女性は,自分のために一生懸命になってくれる男性の姿を見て,精神的な充足を得る事ができます。つまりお互いの役割を担う関係が夫婦と言えます。
創世記2:20
2:20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

第四に、女性は命の存在であるということです。
命とは,ただ生物学的に生きているというだけの意味ではなく、健康で,活力やエネルギーに満ちあふれた精神的・肉体的・霊的命を言います。創世記2:21-23では、アダムのアバラ骨から神は,エバを創造しました。そこから,5つのことを私達に教えています。
創世記2:21-23
2:21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

1,命を守るものとしてです。神があばら骨を妻として,夫に返したのだということを理解する必要があります。なぜでしょう。
 あばら骨は、心臓を守るために大切であり,肋骨がなければ,人間は簡単に死にます。そして、あばら骨は、心臓,すなわち「命」の近くにあって,外部の衝撃から心臓を守っています。つまり、命を守る存在です。それと同じように,神様は、妻を夫の最も身近にいて、夫の命を守る存在として与えられたのです。

 男たちが外で仕事に打ち込める背後には,妻達の献身的な多くの働きがあるのですが、多くの男性たちは,そのことをどれほど理解し,感謝しているでしょうか。それどころか,やってもらって当然,「俺は家族を養っているのだ」とか「給料を持ってこなければこまるではないか」と思いあがっているのが実情ではないでしょうか。そのように女性や主婦達は,自分の役割・存在が非常に軽んじられているゆえに,「夫は私のことを正しく評価していない」となるのです。

 しかし、神の創造は違います。エバはアダムのあばら骨から造られました。それは夫の命を守る大切な存在なのです。妻の働き,妻の助けがなければ,男たちは輝きがなくなり,命を失うのです。

2,心臓は,命を守ると共に,愛を表わすところでもあります。つまり妻に愛を与え,夫は妻の愛を頂いて生きるのです。どちらが重要かと言いますと,与える事が重要であり,優先します。

3,自然に心配するのが女性です。
 女性は,相手のことを思いやり,心配することが自然に出来るのですが,男性は,冷血なほど相手への思いやりを忘れてしまう傾向が強いです。たとえば、「私,二人の子供を抱えて,高熱を出して寝こんでいたのに,夫は仕事を休むでもなく,つらそうだなって,一言言っただけで、出かけていってしまったんです」とかです。ですから、妻に「愛しなさい。惜しみなく与える愛を実践しなさい」(エペソ5:25)と、神は夫に命令しておられるのです。
エペソ5:25
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

 また、妻は命を守るために存在し,男にとって口やかましいと感じるかもしれませんが,実は夫が健全な社会人として,そして、何よりも「男として」、世に出て立派に振舞えるための助ける存在であることを認識し、受け止めることが大切です。そうするなら,自然に妻を愛することができるでしょう。

4、あばら骨の骨とは,ヘブル語では「自分」と同じ音の言葉であると言われています。配偶者がもう一人の自分という意味です。
「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」(エペソ5:28)と記されているごとくです。

 もし、女性が頭の骨から造られたのであれば,女性は男性の上に立ち,もし,足から造られたのであれば,男性に踏みつけられる存在です。しかし、胸の骨から造られたということは,対等のパートナーを意味します。妻は,夫のハートに包まれて,優しく保護されなければならないほどの弱い存在です。妻は,夫の心を癒し,慰める役目があります。
 胸は,十字架のキリストが血を流された所ですから、夫婦は,お互いに赦し合うことを学ぶ必要があります。

5、人間が「神の像」に似せて造られた意味です。
創世記にあるアダムとエバの物語は、人間の創造、そして男と女の創造の状況が象徴的に描かれていますが、人間は「神の像」に似せて造られたということは、人間は自分の創造主や,他の隣人との関係の中で生きる者として創られたことを意味し、その関係の中で生きるということは,隣人を知り,隣人に応答し,隣人に対して責任をもって関わるということをも意味しています。ここに夫として,妻としての男・女の基本的な人間関係の意味を示していると言えます。言い替えるなら,夫と妻という一対一の人間関係において,人が人間として生きる本来の生き方が生まれ,また,交わりの存在としての、人間の完成を目指した営みが生まれてくるのです。これこそ互いに愛し合う真意です。
 結婚とは,親を離れるところから始まり,そして夫婦の間に新しい一体関係が生まれるのです。夫婦とは,生まれ育った家から独立した新しい関係,新しい細胞なのです。親子関係も「夫婦」という細胞から生まれ出るものです。夫婦が人間関係を構築し、子供は、そこから多くのことを学び、自立し、社会生活へとはばたいていくのです。そのために、神を畏れることを夫婦の基本とするなら、すばらしい夫婦関係と家庭教育を築くことができるでしょう。

2007年7月22日 日曜日

人の創造

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創世記1章26節-2章7節

聖書の天地創造の記事の中で、1,2章にわたって人間の創造が述べられているのは、人間が「創造の冠」として特別な存在だからです。
今日は、どのような点で他の被造物と違うかを学びましょう。

第一は、神様のかたちに造られたという点です。
先週は、神様がどのように天地を創造され、すべてを見て、良しと満足されたかを学びました。最後に神様は「これらのものを治めるために」ご自分のかたちに人を創造し、男と女とに創造されました。「われわれのかたち」(1:26)とは、英語の聖書にはイメージと訳されていますが、神様は私達を、神に似たイメージ、神に似た性質を持つ者として造られたゆえに、私達は神様に祈り、賛美して心を通わせることができるのです。「人間は考える葦」であると言ったパスカルというフランスの学者が「人の心には神の形をした穴がぽっかりと開いています」と言いましたが、この心奥深くに開いた穴は、神様だけが埋めることができます。神様を信じ、心の王座にイエス様をお迎えする時、初めて本当の平安を得ることができるのです。なぜなら、人は神のかたちにかたどって造られ、神と交わるように造られたからです。
創世記1:26
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた

第二は、神の性質に似た者として造られたという点です。
 神様は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(1:26)と言われましたが、神は見えないお方ですから、かたちといっても外面ではなく、「知性・感情・意志をもった存在」としての人格性、「清く歩みたいと願う存在」としての道徳性、「霊なる神と交わる」存在としての霊性、「他の人間と交わる存在」としての社会性といった内面のことを意味しています。唯一の神であられるのに「われわれ」と言われているのは、三位一体の神を暗示しているのでしょう。だから神は、人を「神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(1:27)のは、三位一体の神が愛し合われたように、人間を愛し合う存在として創造されたのです。
創世記1:27
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
人間は最初、このような高貴な存在として創造されました。いわゆる「性善説」です。しかし、罪が人の中に入り込んで以降は、「性悪説」にならざるを得ませんでしたが、神のかたちそのものであられるイエス様が、人間として生まれたことによって、人は「造り主のかたちに似せられてますます新しくされ」る道が開かれたのです(コロサイ3・10)。
コロサイ3・10
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

第三は、土のちりで造られ、神の息で生きる者とされたという点です。
 神様は他の生き物をつくる時、言葉だけで創造されました。しかし、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(2:7)とありますように、特別な存在として造られました。それはどういう意味かと言いますと、人が、霊的な存在として造られ、神の息・命の息を吹き入れられた時、人は生きた者となったということです。ここが、人間と他の動物が区別される重要なところです。神様は私達に、自分の意志で考える力や、感じたり、話したり、愛したり、神様と交わる力を与えて下さいました。2:15節以降を読みますと、人は神様と自由に語り合っていることでお分かりでしょう。神の息によって生かされたからにほかなりません。
創世記2:7
2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

皆さんは学校で人間は、サルから進化したと学んだことでしょう。
しかし、イザヤ43・4には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とありますように、神様は私たち人間をどんなものより尊いものとして愛して下さっていることがわかります。なぜなら、神様が私達人間を造って下さったからです。
イザヤ43・4
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

多くの人々はこの真理を知りません。神の息がなくても、神と交わらなくても、生きていけると考えるからです。それは「人の罪」の結果です。神によって生かされていることを認める時、私達は初めて、創造された時の本来の人になれるのです。

第四は、造られた人間の責任は、地を治め、支配するという点です。
 神様は人に「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(1:28)と言われました。神のかたちに造られた人間は、被造物を秩序正しく保つ責任を委ねられたのです。神様が「従えよ」とか「支配せよ」と言われたからと言って、人間の欲得で、勝手気ままにするならば、地球はバランスを崩してしまいます。
創世記1:28
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

神様の望まれた世界は、イザヤ11:6-8で語るように「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」(イザヤ11:6-8)世界ですが、現実には、自然界も人間界も争いが満ちています。特に人間は自らの繁栄のために、自然界の多くのものを犠牲にしています。たとえば、自動車や電気製品は人間の生活を便利にしましたが、それによって二酸化炭素がどんどん増加し、その結果、地球温暖化が進み、異常気象や酸性雨をもたらしています。また森林の乱伐による砂漠化も自然破壊と言えましょう。人間は、自分が繁栄することを求めるだけでなく、神が創造されたこの自然界を治めるべき重大な責任があるのです。

 神様は人を、他のどの被造物とも違う存在として造られました。神と交わりをもつ時、神のかたちを保ち、他の被造物を、秩序正しく治めることができるのです。この基本的な真理を、どんな時にも忘れないで、「イエス様なら、どうされるか」、イエス様のみこころを常に考えつつ、行動させて頂きましょう。

2007年7月15日 日曜日

はじめに神が

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時20分53秒

創世記1章1-25節

皆さんは夕日が沈むのを見たことがあるでしょう。真っ赤な太陽が、西の空にゆっくり沈むのを。また、朝日が昇る時、真っ暗な空がだんだん明るくなって、真っ赤で光輝く太陽が昇ります。太陰だけでなく夜空に輝く月や星をながめると、とてもきれいです。今日はこの太陽や月や星、自然界の動物や植物など、いったい誰が創ったのかを考えてみましょう。

第一は、天地の創造者はどなたかです?。
 「初めに」(1:1)とは、物質世界がまだ存在しない時のことです。科学は、このような時のことを扱うことはできませんが、聖書は「初めに、神が天と地を創造した。」(1:1)とはっきり明言しています。では、天地が創られる前の様子はどうだったのでしょうか。聖書には「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」(1:2)と記されています。ただ、神様だけがおられたのです。ある時、神様はご自分のお考えをもって、宇宙全体の完成予想図を計画され、目的をもって天と地とを創造なさったのです。
創世記1:1,2
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

第二は、どのように天地は創られたのかです。
神様は天地を創造される時「言葉」をもって創造されました。真っ暗闇の中、「『神が「光よ。あれ。』と仰せられ」(1:3)ると、神様の言葉の通りに、突然光が輝きました。「そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられ」(1:4)ました。これが創造の第一日でした。
創世記1:3,4
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

第二日は、「大空よ。水の間にあれ。水と水」を分けられ、「その大空を天と名づけられ」ました(1:6-8)。
創世記1:6-8
1:6 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。
1:7 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。
1:8 神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。

第三日は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」(1:9)と仰せられ、「かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけ」、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」(1: 10,11)と命じられると、「その中に種のある実を結ぶ木を生じ」(1:12)ました。
創世記1:9-11
1:9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:10 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
1:11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。

第四日は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられると、「神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせ」(1:16-18)、「また星を造られ」(1:16)ました。
創世記1:16-18
1:16 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。

第五日は、海と空の全ての生き物をお創りになりました(1:21)。「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」(1:20)と仰せられると、大空には鳥たちが飛び回り、水の中ではあらゆる種類の魚が泳ぎ回りました。
創世記1:20,21
1:20 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。
1:21 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。
第六日は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を」(1:24)創られました。
創世記1:24
1:24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。

そのように、天地万物は、すべてが神のお言葉とご計画によって造られました。人間の耳に聞こえる言葉でないにしても、神の意志に従ってこの世界の全てが創造されたことを、私達は信仰によって受け入れる者となりたいものです。

第三は、創造論と進化論です。
植物や動物が「種類にしたがって」創造されたと記されていますが、これは、学校で教えている進化論とは違います。

進化論は、一つの種から様々な種が進化したと言いますが、これは立証された科学的事実ではなく、あくまでも一つの仮説です。進化論の最大の問題点は、突然変異によって種が変化するという主張でしょう。類人猿が人間に進化する過程でさえ、今だに謎に包まれているのに、アメーバのような単純な生物が、偶然におこる突然変異によって、人間のような複雑なものにまで進化できるのでしょうか。まして、人間にだけ与えられているたましいについてどう説明できるのでしょうか。かえって、神がその深い知恵によって秩序正しく、すべての種を創造されたとするほうが、はるかに理解しやすいのではないでしょうか。

第四は、なぜ地球を大切にするのかです。
神様は大空も海も山も、そして小さな野原の花や虫も一つ一つ心を込めて創造された後、神様が創造されたものの中には、不必要なものは何一つなく、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(1:31)のですから、私達は、神様が創造して下さった地球を大切にしなければなりません。

今、地球は温暖化で大変な状態になっています。北極、南極の氷が溶けて水かさが増し、沈没しそうになっている島もあります。様々な災害が世界の各地で起こっています。神のみ前で謙遜に、「豊かな生活を支え続けた資源を奪い、無駄にしてきた」ことを悔い改めると共に、神の創造された自然界に対しても、倣慢になってはいけません。資源を浪費せず、自然を汚さず、地球を大切にすることが求められています。

 現代の多くの人々は、見える世界のみに関心をもち、見えない世界や見えない神を信じようとしません。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟る」(ヘブル11:3)と共に、神様の秩序に従っていく時、人は祝福と恵みを受けます。私達も、自然界を通し、歴史を通して、神様の存在を認め、皆さんを創造し、愛し、祝福し、全生涯を導いて下さる創造主なる神様を信じて歩ませて頂きましょう。

2007年7月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 0時00分54秒

佐賀大学の上原春男博士は「海洋温度差発電」の世界的権威ですが、この研究と共に学生の「やさしさ度」の実験も続けてきました。実験で忙しくしている学生に「パンを買ってきてくれないか」とお使いを頼みます。学生は①「はい、すぐ行ってきます」と二つ返事ですみやかに席を立つ。②「わかりました」とやりかけの仕事をすぐに一段落させてから行く。③「これから行きますから、少し待って下さい」と当面の仕事を優先させる。④「なんで私が先生のパンの使いに行かなくてはいけないのですか」と食ってかかり、結局行かないの4つに分かれました。長い年月がたって、①②の反応をした人は満ち足りた人生を送り、④の反応した人は、あまり幸せな人生を送っていない、という結果を得たそうです。
「心に知恵のある者は命令を受け入れる。むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。」
(旧約聖書箴言10章8節)

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