2007年8月26日 日曜日

信仰の人ノア

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分52秒

創世記6章1-22節

エノクと同様、神とともに歩んだもう一人の人物が、ノアでした。ノアの名前は「慰め」という意味です。神様のお心を慰めることができるような信仰をもてるならどんなに素晴らしいでしょう。今日は、神様に全き人と見られていたノアの信仰について学びましょう。

第一は、神様の悲しみ、それはさばきの告知でした。
 人が地上に増えるに従がって、罪もますます増えていきました。神様のお心が痛むような悪がたくさん行われました。いじめや殺人、盗みなど、今の私たちの社会とあまり変わらない状態と言えましょう。

2節の「神の子ら」(6:2)とは、神を信じて生きていた人々のことでしょう。彼らは神を信じない人々の娘たちが美しいのを見て、妻にめとり、生まれた者は「ネフィリム」(6:4)、訳して「堕落した者達」と言われ、「勇士であり、名のある者たちで」(6:4)したが、どんなに美人であり、勇士であっても、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけ」(6:5)であっては、神の創造の目的にかないません。「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ」(6:6)、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。」(6:7)とさばきの決断をされたのです。神のさばきは、怒りのゆえではなく、痛みのゆえであることを忘れてはなりません。
創世記6:2,4,5,7
6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
6:4 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

確かに当時、「神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。」(6:12)。本来は、互いに愛し合い、助け合って生きていくべきなのに、実際は「暴虐で満ちて」(6:13)、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」(6:7)と決めるほどに、神様は人間を造ったことを悔やまれたのです。

第二は、ノアという人物です。
 罪に満ちている時代に、神は一人の人物に目をとめられました。それが「神とともに歩ん」(6:9)でいたノアでした。神は、「今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうと」(6:13)と言いながら、ノアを全き人と認め、これからしようとすることを彼に告げられたのです。
ノアは3つの点で他の人たちと違っていました。
創世記6:9,13
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

1、ノアとは、「慰め」という意味で、父レメクは、「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれる」(5:29)者になってほしいという思いで名付けたのですが、確かに彼はそういう人物でした。
創世記5:29
5:29 彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」

2、「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」(6:8)。神が人間を造ったことを悔いるほどに、暴虐と罪が満ちていた時代にあって、ただ一人ノアだけが主の御心にかなっていた。これは、ノアが、神の前に完全無欠な人間であったということではなく、弱さを持ち、失敗を犯す人間であったが、神の前に「恵み」によって歩む人であったということです。
創世記6:8
6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

3、ノアは、「正しい人であって、その時代にあっても、全き人で」(6:9)した。これは、動機において正しいということです。そして、彼も「神とともに歩んだ。」(6:9)と記されていますように、ノアが自分の弱さを知っていたゆえに、神にすがり、神に頼った信仰生活をしていたということです。それゆえに、神は、ノアを全き人と見、祝福の基とされたのです。たとえ、地上に悪人がはびこっていた時代においても、神の言葉を聞き、また、「すべて神が命じられたとおりにし、行なった。」(創世記6:22)からにほかなりません。現代でも全く同じ原則があてはまります。重要なのは、神の言葉を聞き、それに従うことです。多くの人々が自分の好きなように生きているとしても、妥協して彼らと同じように生きないことです。
そして、人と比較したり、自己判断したり、感情で物事を判断するのではなく、冷静に、動機が正しいか否かを判断することです。
(動機とは、感情ではなく、その人が行動や行為を決定する意識的、、または無意識的原因のこと)。
創世記6:9
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

創世記6:22
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。

第三は、神の計画、それは救いの告知でした。
 神様はノアに「今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」(創世記6:13)と声をかけられ、罪が満ちている世界を、新しく創り直そうと考えられ、洪水によって地をさばかれることをノアに知らせ、神様を信頼しきっているノアに、箱舟を造るように命じられたのです。
創世記6:13
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」(創世記6:14)と告げられ、箱舟の大きさも教えています。1キュビトを45cmとすると、長さ132m、幅22m、高さ13,2mほどで、3階建ての大きな箱舟に、ノアだけでなく、彼の妻も3人の息子夫婦も入るように神は命じられました。神はまた、「すべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。」(創世記6:19)とも言われ、神とともに歩んだノアのゆえに、彼の家族も、またすべての生き物も救われる道が告げられ、その命令を信じ行ないました。

第四は、神と共に歩む者に対する契約の告知です。
神が「わたしは、あなたと契約を結ぼう。」(6:18)と語っていますが、この「契約」という言葉が聖書の中に出てくる最初の例です。この契約の内容は9章に示されていますが、ここで強調されているのは、神の言葉に従うことです。もしノアがみ言葉に従わなければ、神の救いの計画は実現しなかったでしょう。神との契約は、人がそれに従うことによってはじめて成り立つということを、神は私達に教えておられるのです。
創世記6:18
6:18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。

神様に喜ばれる完全な人とは、神様のお言葉に聞き従う人のことです。ノアは、目に見えるところ、箱舟の必要性のない状況であり、人々からもあざ笑われたことでしょう。「なんて無駄なことを、ばかなことを」と。しかし、ノアは、神のみことばを信頼し、信仰によって受け止めたのです。私達も、神のみことばに聞き従がう者として、自分の力に頼らず、みことばを聖霊の力により、信仰によって受け止めて生涯を歩ませて頂きましょう。

2007年8月19日 日曜日

信仰によって、神とともに歩もう

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分48秒

創世記5章21-24節

 私達は、自分自身がどう生きるかを、神は私達自身にゆだねておられます。今日は、信仰によって歩み、特別な恵みを与えられたエノクの生涯について考えてみましょう。

第一に、エノクは、他の人々より短命だったということです。
聖書のアダムの系図によると、アダムは930年生きて死に、セツは912年生きて死にます。一番長生きした人はメトシェラで969年生きて、死んだと記されていますが、そんな中、アダムから7代目のエノクの寿命は365歳で他の人に比べると短命でした。そして、エノクは他の人とは違った歩みをしたことが記されています。

エノクについての記述は、5章の中でたった4節しかないにもかかわらず、彼は「神とともに歩んだ」(5:22,24)と、二度も繰り返されています。エノクこそ、「神とともに歩んだ」と明記される最初の人物です。
創世記5:22,24
5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

長寿を求める人々は、エノクの生涯が不幸だったと考えるかもしれませんが、本当にそうでしょうか。現代でも、病気や事故などで若くして亡くなる人々もいますが、そういう人々は皆、不幸なのでしょうか。聖書は決してそのように記していません。永遠をご覧になる神にとっては、この地上の生涯だけが人のすべてではないからです。

第二は、エノクの目覚めです。
 エノクは65歳でメトシェラを生みます。ところがメトシェラを生んだ後、エノクの人生に大きな転機が訪れます。それは、メトシェラの誕生とともに、信仰に目覚め、その時より300年神様と共に歩んだのです。エノクは長男の誕生によって、大洪水のさばきが長男の死後来るという神の声を聞いたのでしょう。彼はその子をメトシェラ、彼が死んでからそれが送られると名づけました。メトシェラが死んだ年は大洪水の年に当たります。

第三は、神が取られたということです。
 この系図は、一人一人の最期を「こうして彼は死んだ。」という言葉で結んでいますが、エノクだけは「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(5:24)と記していますが、これはどういう意味でしょうか。新約聖書のへブル書の著者は、はっきりと「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。」(ヘブル11:5)と記しています。エノクは死んだのではなく、「天に移された」のです。具体的に彼の肉体がどのようになったかはわかりませんが、当時の人々の目には見えなくなったのです。
ヘブル11:5,6
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 ヘブル書は、先の引用文の後、「移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)。つまり、神とともに歩むことは、神が喜んでくださることです。それゆえに、神はエノクを天に移された。彼が短命だったことは、彼の肉親や友人にとっては悲しいことだったかもしれませんが、主なる神は彼を喜ばれたからこそ、その地上の生涯は短かったが、肉体の死を経験せずに、天に移されたのです。

第四は、神様と共に歩む秘訣は何かです。
 エノクの生きた時代は、汚れが満ちた時代でした。人々は、神様を恐れず、無視して、自分勝手な生活をする罪に満ちた世界でした。そのような時代の中にあって、エノクは神様を信じ、神様と共に歩む、きよい勝利の生涯を歩みました。聖書にはエノクの生涯がこのように記されています。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11・5)と。そして、神様に喜ばれる秘訣は「信仰」だと教えられています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11・6)。

第五は、信仰とは何かです。
 信仰とは、神の言葉への同意と不可能を行なうために必要な恵み、それは、すべきことを行なう力を神様から受け取るところからくるのです。
 永遠の愛の尺度をもって愛する神様をあなたは信じますか。そこにイエス・キリストの十字架の愛のしるしがありますが、それを信じますか。信じるなら、あなたはイエス・キリストの言葉を信じなければなりません。イエス・キリストのことばを信じるだけでは、本物の信仰とはいえません。そのみことばを日々の生活に活かされて始めて信仰と言えます。信仰を含め、実行する力と、あなたに必要なすべての力は、神より与えられる賜物(エペソ2:8)です。そして目に見えるところに焦点をあわせるのではなく、見えないが確かなところに、心の目を合わせること、それが信仰です(ヘブル11:1)。その信仰に立ったのがエノクであり、私達でなければなりません。
エペソ2:8
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

ヘブル11:1
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

つまり、①神を信頼すること、信頼するとは、神がおられることを信じることが大前提です。その上で、あなたの全生涯と、今を神に明け渡すことです。②信仰によって受け止めること。それはみ言葉をもって確信されます。③神と交わること。④神と共に歩むことです。これらがなされて、真の意味で神と共に生きる者とされるのです。

そのような人を神は見捨てるはずがありません。試練の中にあっても、神は脱出の道を備え、恵みと祝福の雨を降らせて下さいます。そして、確かなことが一つあります。それは天国の席があなたに用意されていると言うことです。たといこの地上における生涯が短くても、その日々を神とともに歩んだエノクのようにです。それを信仰によって受け取ることです。

 神から身を隠して生きていくか。それとも神とともに歩むか。それは一人一人が選択する必要があります。この系図の他の人々がどうであったか、聖書は言及していませんが、エノクについては、明確に神とともに歩む生き方を選び取ったことがはっきりと記されています。私達も、信仰によって、神様と共に歩むことを選び取って、日々を歩ませて頂きましょう。

2007年8月15日 水曜日

2007年8月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 7時52分41秒

私達は、正邪善悪で、物事を決め付けたり、厳しい指導の言葉を憎しみと勘違いしたりします。ソロモンという人は、「ものごとの本質は、簡単にはわからない。見えない」と言います。決め付けないで、謙虚に人々の状況や自然を注視して、人生を深く味わいましょう。
「私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。彼らの前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。」
(旧約聖書 伝道の書9章1節)

2007年8月12日 日曜日

3つの神の約束

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分28秒

創世記3章10-21節

神は、自分から身を隠したアダムとエバに対して、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけて下さると共に、幾つかの約束を与えられましたが、今日はその後の二人の様子と神様の約束を学びましょう。

第一は、主の呼びかけです。
 「あなたは、どこにいるのか。」(3:9)と神様は人に呼びかけられました。神は女にではなく、まず男に語っていますが、それは男が神の前にまず責任を取るべき存在だからです。神はなぜ「あなたは、どこにいるのか。」と聞かれたのでしょう。神はもちろん人の居場所を知っておられました。神はこの質問によって、彼らが神から離れて迷い出ている存在であることを自覚し、その罪を悔い改めることを求められたのです。聖書が語る罪は、行ないよりも先に、神様との関係における心のあり方を問われたのです。

第二に、第一の約束は、神から離れた二人への神の恵みの約束です。3つことが考えられます。
その1、神から離れたアダムです(3:10-12)。
神を「恐れて、隠れた。」(3:10)二人に対して、神は「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」(3:11)と尋ねて、人が行動として犯した罪を指摘し、悔い改めを期待したのです。
創世記3:9,10,11
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

それに対してアダムは、「私は食べたのです。」(3:12)と、その事実を認めていますが、その行動の責任が自分にあることは認めず、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(3:12)と言って、エバに責任をなすりつけています。罪を犯す前には「私の骨からの骨、私の肉からの肉。」(二23)と言って喜んで女を迎えたその同じ口から、「この女が」という言葉が出て来たのです。しかも、「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言って、究極的には罪の責任を神御自身に転嫁しようとしています。
創世記3:12
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

創世記2:23
2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

その2、神から離れたエバです(3:13)。
神はエバに「あなたは、いったいなんということをしたのか。」(3:13)と。このことばの中には、女の犯した罪がどんなに大きな罪であるか、また主がその罪をどんなに悲しんでおられるかが示されています。それを女に伝えることによって、女が自分の罪に気付いて悔い改めるようにと願われたのですが、エバは、自分が食べた事実は認めたものの、その責任が自分にあることを認めず、「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(3:13)と言い、悪いのは蛇であって自分は被害者であると主張したのです。ここにも悔い改めが見られません。
創世記3:13
3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

その3、神から離れたアダムとエバに対する神の恵みの約束です。ここでは3つのことを神は教えてます。
1、自分の罪の責任を他人に転嫁しようとしているこの二人の言い分を、神はあえて怒らず、聞いておられますが、ここに神の愛と忍耐深さを知ることができます。
 
2、人はなぜ悔い改めないのでしょうか。その理由は、人のプライドです。神の前に自分の罪を認めてしまうと自分の立場がなくなり、自分自身が否定され、自分が自分でなくなってしまうことを恐れたのです。しかし、神は、人が自分自身を回復するために、まず自分の罪を認め、その罪を悔い改めることを求めておられたのです。偽りのプライドにしがみついて罪を悔い改めない人は、かえって自分自身を失うのです。

3、神はすぐに二人を滅ぼすこともできましたが、神はそうなさらず、かえって彼らが救われるための約束を用意されたのです。これこそ、神の恵みと言うことができましょう。今でも神は、本来は滅ぼされて当然の者に悔い改めの機会を与え、人々が神に立ち帰るようにと、恵みの約束を提供しておられることを忘れてはなりません。

第三に、約束の第二は、サタンに対する滅びの約束です。
 へびに対して神様は、「おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」、そして「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。」(3:1415)と宣言されました。へびを通して、人を誘惑したサタンに対して、神様はサタンと人間の間に子々孫々にいたるまで、恨み(敵意)をおくと言われ、しかも「おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(3:15)と預言されました。このことは、やがて女のすえから生まれるイエス・キリストを通して、サタンを滅ぼすという人類の救いの預言をされたのです。

 「彼のかかとにかみつく」(3:15)とは、サタンが人々の心に働きかけて、やがて生まれてくるイエス・キリストを十字架に追いやり、十字架上で殺すということを意味します。また、「おまえの頭を踏み砕き」(3:15)とは、イエス・キリストの十字架と復活は、サタンのもたらした死と罪を滅ぼし、完全に勝利することを意味します。このように神様は罪に陥った人間に、サタンの滅びの約束をして下さいました。

 それでは、なぜ蛇=サタンはさばかれたのでしょうか。「おまえが、こんな事をしたので」(3:14)と言われていますが、これはサタンが神に反逆しただけでなく、神に造られた人間を誘惑し、自分と同じような神への反逆者にしたからです。このことによって被造世界の中に罪が入り、被造物全体がうめき苦しむことになったからです。
創世記3:14,15
3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

第四に、第三の約束は、罪人に対する救いの希望と回復の約束です。ここでは3つのことを考えましょう。
その1、アダムとは、土という意味ですが、神の約束を破った結果、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(2:17)と言われたように、神様は、アダムに「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」。そして「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(317:19)と。つまり「最後は死ぬ。そして、ついに土に帰る」という、自分に対する神のさばきを聞いたのです。
創世記2:17 
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

創世記317:19
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

そのような中で、アダムはエバに対する神の裁きの言葉「苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」(3:16)と聞きつつ、彼は、妻の名を「エバ」「いのち」と命名したのです。ここにいのちへの希望を見ることができます。人は神様のさばきの中にも、神様による救いを信じることができ、いのちへの希望を抱くことができたのです。それは、やがて女の子孫が、サタンのかしらを踏み砕くという神の約束を信じることができたからです。
創世記316
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

その2、神は女に対しては出産の苦しみ、人に対しては労働の苦しみというさばきを宣告していますが、これらは、確かに二人が罪を犯した結果ではありますが、神が人を憎んで与えられたものではありません。出産の苦しみの後には誕生の喜びがあり、労働の苦しみの後には収穫の喜びがあることを心にとめましょう。
 
その3、「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(3:21)と記しています。それまで全ての生物を創造し、命を与えられた神が、ここで初めて動物を殺して皮の衣を二人の罪人に与えられたのです。そのように、二人のために、皮の衣を作って下さった神様は、やがて私達が汚れのない衣を着て神様にお会いすることができるように、罪なきイエス様の犠牲の血をもって救いを完成して下さることとイエス様の十字架の約束を暗示していると言えます。
 以上すべては、罪人の回復を願っておられるゆえに、神が与えて下さった約束なのです。
創世記320:21
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

神の意志にさからい、自分勝手に生きようとする人や、今を生きている私たちは、たとい罪を犯すようなことがあっても、神様は、常にご自分のもとに帰るよう、そして、イエス様の十字架を信じるなら、罪赦され、永遠の命を頂くことが出来るよう、救いの計画を用意して下さいました。私たちの心が神様との関係においてどうでしょうか。もう一度、神様の恵みの約束を信じ、神様の憐れみを求めて歩ませて頂きましょう。

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