2007年8月5日 日曜日

誘惑するサタン、される人

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分42秒

創世記3章1-9節

 私達は、この世に生きている限り、サタンは巧妙に誘惑のわなをしかけ、神から引き離そうとします。ただ、誘惑が罪なのではありません。イエス様も誘惑にあわれました。そうではなく、誘惑に負けて罪を犯すことが問題なのです。今日は、どのような誘惑で、どのように誘惑し、罪におちいらせるかを考えてみましょう。

第一は、どのようにサタンは誘惑したかです。4つ上げましょう。
1、 サタンは、神のことばをねじまげたということです。
神は「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」(創世記2:1617)と言われましたが、蛇は、「園のどんな木からも食べてはならない」(創世記3:1)と、神がすべてを禁止されたかのように言い換え、神のみことばをねじまげています。
創世記2:1617
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

創世記3:1
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

2、サタンは、神のことばを疑わせたということです。
蛇は「……と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)と言うことによって、女が神のことばの真実を疑うように仕向けたのです。「神はどんな木からも食べてはならない、というような厳し過ぎる命令はしないと思いますが、まさか、そんなことを神が本当に言われたのではないでしょうね」と蛇は言おうとしているようです。

2、サタンは、神のみことばを否定したということです。
神は「それ(善悪の知識の木の実)を取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と言われたのに、蛇は「あなたがたは決して死にません。」(創世記3:4)と全面的に否定しています。サタンの最終的な目的は、神のみことばを疑わせ、それを全面的に否定することにあります。
創世記3:4
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

3、サタンは、神の愛と真実を疑わせたということです。
蛇は「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)と言って、神の愛と真実を疑わせたのです。サタンは、人が神から自立して「完全な権威と自由」を持つことができるかのように錯覚させ、その実は、サタンの奴隷、罪の奴隷にしようとしたのです。
創世記3:5
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

現代においても、神を信じ神に従うことは、人間としての主体性や自由、アイデンティティーを放棄するかのように考え、神を否定し、自分の考えや自分の内なる欲望に従うことこそ真の主体性の確立であり、自己実現の道であるかのように思われていますが、そのような人は、創造主から離れ、自分の存在の基盤や、自分の生きる絶対的な基準、生きる意味を失い、自分の欲望の奴隷となって滅亡に向かっているのです。

第二は、誘惑される人です。
 女が神のみことばを、どのように誤用したかを4つ上げてみましょう。
1、彼女は、「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。」(創世記3:2)と言っていますが、そこでは「園のどの木からでも思いのまま」(創世記2:16)という神の気前の良さが削除されています。
創世記3:2
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

2、彼女は「園の中央にある木の実」(創世記3:3)と言っていますが、園の中央には善悪の知識の木といのちの木もあった(創世記2:9)わけですから、このような表現は神のみことばを曖昧にしていると言えます。そのことによって、いのちの木からは思いのまま食べてよいという神のみこころが否定され、神からの豊かな恵みを見失ったと言えます。
創世記3:3
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

3、神は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」(創世記2:17)と言われましたが、彼女は、この神のみことばに付け加えて「それに触れてもいけない」(三3)と言った。彼女は、蛇の策略に陥って、神が厳し過ぎる方であるように思わされ、勝手に神の命令に付け加えたのです。

「善悪の知識の木」(創世記2:17)を食べるとは、人間が善悪の判断を下して行動するという意味です。神様の秩序に従っていた時、すべてがよかったこの地上に、人間の規準で善悪を定めようとしたのです。それは、自分が神の立場に立って人をジャッジ、さばくことにほかなりません。これこそ罪の本質です。そうではなく、自分を絶対化しないで、神の秩序と善悪の規準に従がい、神の言葉を謙遜に聴き従って行動することです。

4、神は「あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と仰せられたのに、女は「あなたがたが死ぬといけないからだ。」(創世記3:3)と言っています。神様は百パーセント死ぬと言われたのに、女はそれを五十パーセントに引き下げています。彼女は、神のみことばの権威と確実性とを割引しています。

 神のみことばを削除し、暖昧にし、付け加え、あるいは差し引くことによって、私達はサタンの誘惑に陥り、真の救いが奪われるのです(ヨハネ黙示録22:18、19)。
ヨハネ黙示録22:18、19
22:18、19
「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」

第三は、罪の発端は、彼女の思いが神のみことばから離れ、自己中心的な思いで「見ると」(創世記3:6)、「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)。ここに3つの自分の欲求を誤用したことが記されています。
1、「食べるのに良く」、それは、食欲・肉体的欲求です。
食欲は神が人に与えられた賜物であり、それがなければ人は生きていけません。ところが、それが偶像化すると、人は食物によって心を満たそうとし、「食べるために生きる」ようになります。そうではなく「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばに」(マタイ4:4)よって生きるようにイエス様は勧めています。
創世記3:6
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

マタイ4:4
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

2、「目に慕わしく」、それは美的・芸術的欲求です。神が創造したものは「非常によかった」(創世記1:31)のですが、「目に慕わしく」ということは、「自分の感覚にぴったりした」という意味です。
美術や音楽それ自体は悪いものではありません。むしろそれらは、神の創造の美しさを、それぞれの分野において、それぞれの方法によって表現すべく、神が人に与えられた才能です。しかし、それらが神の栄光を現すためでなく、自分の欲望や感情表現の道具となり、美術や音楽がもたらす美しさが神となる時、それはゆがんだものとなり、自己満足以外の何ものでもなくなるのです。
創世記1:31
1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

3、「賢くするというその木はいかにも好ましかった」、知的欲求です。知恵や知識もまた神からの賜物であり、あらゆる学問的な知識は、神と神の被造物を知るために有益ですが、もし人が自分の知識の限界を認めず、知識を神格化して行くなら、それは大きな脱線です。むしろクリスチャンにとって学問とは、聖書によって示された真理を実証するものであり、また、聖書そのものをより深く理解する助けとなるべきものです。

 これら肉体的欲求、美的欲求、知的欲求はすべて神からの賜物であり、神の素晴らしさを知るため、そして神のみこころを知り、実行に移すために神によって与えられたものです。しかし、逆に神の言葉から離れるならば、それらのものが神となり、偶像化して行くのです。ここにサタンの誘惑があるのです。

第四は、神から離れようとする人です。
 木の実を食べた二人は、目が開かれ、彼らがわかったのは、「自分たちが裸であること」(創世記3:7)でした。彼らは自分たちのしたことが神の前に恥ずべきことだと知って、その恥を隠すために「園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)ました。罪は人を神から離れさせようとします。そのような人に、神は「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)と呼びかけておられます。神様は人がどこに隠れていたかご存じでしたが、あえて人からの返事を求められたのです。人が神を避けても、神は人を忘れられることはありません。罪を犯した私達は、自分の力で神様のもとに帰ることはできません。しかし、罪を犯した人間をも愛し、「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)と、ご自分のもとに帰ってくるように名を呼び、ひとり子イエス様をこの世に遣わして下さり、十字架の血によって、罪赦され、永遠の命を頂くことが出来たのです。人を罪に陥れる誘惑に負けないように、たとい誘惑に負けて、罪を犯しても、正直に神の前に出て悔い改めると共に、神様から目を離さないで、神様のみことばに立った歩みをさせて頂きましょう。
創世記3:7,8,9
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

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