2007年9月30日 日曜日

神の契約のしるしの意味

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分12秒

創世記9章8-17節
洪水によって全てを一掃した神は、世界との新しい関係を築くべく、ノアたちに祝福と戒めとにじの契約を与えられましたが、今日は契約のしるしの意味について考えてみましょう。

第一は、創世を思い起こさせる回復と神の祝福で、3つあげられます。                  
1、生めよ、増えよです。
  神は、ノアとその息子たちを祝福して「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」(1)と言われました。神のさばきによって人類の大部分が滅ぼされた今、洪水後の新しい世界で、新しい人類の先祖となったノアと息子たちに再び神の祝福が与えられ、人間の罪と失敗にもかかわらず、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」という神の御計画には変更がなかったのです。
創世記9:1,2
9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

 更に神は、「野の獣、空の鳥、・・これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」(2)と言われましたが、ここで2つのことが教えられます。
創世記9:2
9:2 野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

その1、洪水の原因は、人の罪ゆえであり、もはや動物や自然界を支配する資格がないにもかかわらず、神は動物を人間にゆだねられたことです。つまり、神の目的は、暴虐に満ちた世界を洪水で滅ぼしつくすことではなく、もう一度、創世の時のように、ノアたちにすべての生き物をゆだねられたことです。

その2、私達も罪ゆえ、滅びてもしかたのない者であるにもかかわらず、イエス・キリストは、自ら十字架をもって罪の身代わり(贖い)となって、罪の赦しを与えて下さいました。ですから、私達は、神にゆだねることです。そして、自然界を秩序正しく治めることを神は、人間にゆだねられたということは、神はあくまで人間を信頼し尽くしていたからと言えます。しかし、現実には、神から離れ、人間の罪ゆえに調和は乱れ、殺人・自然破壊されていることは悲しいことです。

2、食物です。
神様は「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(9:3)と言われましたが、神様は、これからは、新しい地で生活するために、青草だけでなく、肉も食べることが許されたのですが、ただ、血のあるままで食べてはならないと、禁止命令も加えられています。血は贖いのために、神にささげられるものだからです。
創世記9:3
9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

3、人のいのちの尊さです。
 「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。」(9:5)と主は言われましたが、神はなぜこれほどまでに人のいのちを尊いものとされるのでしょうか。
それは「神は人を神のかたちに」〈9:6)創造し、尊厳ある者として「お造りになったから」〈9:6)です。つまり、人を殺すものは、人を御自身のかたちに造られた神を侮辱し、神に反逆しているからです。それゆえに、人の血が流され、その命が損なわれてはならないのです(6節)。
創世記9:5,6
9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。

このように考えるならば、自殺も罪です。私たち日本人には、いのちが神によって造られたという認識がほとんどありませんから、「死」を美化したり、死ぬことによって自分の責任を取るようなことをしますが、私たちは、人が神によって神のかたちに造られ、神との正しい関係を築くことを、神は求めていることを知る必要があります。

第二は、神の契約の虹です。
1、契約の主体は誰かです。
 神は二度と地をのろわないと言われましたが(8:21)、それをより確かなものとするために、「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。」(9:9)と語られました。この契約の発案者も、契約の主体も神御自身です。それ故「わたしの契約」と言われているのです。この契約の重要な点は、神ご自身がすべての責任を取って下さるということです。
創世記8:21
8:21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。

創世記9:9,10
9:9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。
9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。

2、契約の対象は誰かですが、それは、もちろん「ノアと息子たち」と「後の子孫」、及びノアたちと一緒にいるすべての生き物です(9:9,10)。人類の罪の故にさばきは罪を犯さなかった動物にまで及び、神の大洪水によって滅ぼされましたが、今度は、ノアの故に動物に至るまで主の契約の対象が拡大されたのです。やがてこの恵みはキリストの贖いを通して、被造物全体に及ぶことの預言でもあります(参照ローマ8:19-21)。
ローマ8:19-21
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

3、契約の内容ですが、その内容は、「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(11)ということで、その意味は、洪水が二度と起こらないということではなく、洪水によっては全地が滅びることはないということと、全地が滅びないということではなく、洪水によっては滅びないということです。
創世記9:11
9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

第三は、契約のしるしで、3つの点があります。
その1は、この契約はノアと息子たち及びその当時生存していた生き物と、その子孫に、代々にわたって受け継がれる「永遠にわたって結ぶ契約」(9:13)で、一時的なものでないということです。
創世記9:13
9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

その2は、神が「虹」を契約のしるしとされたということです。なぜ虹が選ばれたのか。それは虹がどこからも見ることができることと、「平和」を意味しているからです。

その3、「しるし」の目的です。「わたしは、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(9:16)と言われるように、神は御自分の契約を忘れる方ではありません。そこには3つあります。
創世記9:15,16
9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」

1、神が雲の中に「虹」を置かれたのは、人間とその他のすべての肉なる生き物とを心にとめて、二度と地を滅ぼす洪水を起こさせないとの約束のしるしです(15、16節)。

2、神が洪水というような、ご自身の権利や力を実際に使って悪を滅ぼすのではなく、それとは異なる方法をもってこの世界を救い、ご自身とこの世界との関係を永遠に保つことのご決心のしるしでもあります。

3、神が永遠に人との親密な関係と交わりを望まれ、保持して下さることの保証であり、慰めと平安と希望のしるしでもあります。

第四は、ノアたちにとって虹は、神との契約のしるしであり、契約を思い出させ、保証のしるしでしたが、私達にとって何の意味かです。
神様は罪を憎まれますが、私達罪人を愛して下さいます。ノアの時代に洪水による滅びが起こされたのは、神様が人を憎まれたからではなく、罪を憎まれたからです。私達は、その人・相手を先入観や偏見、言葉や行動など外側を見て判断し、その人をさばき、許せないと感じます。しかし、難しい、イエス様の愛がなければできないことですが、その人を憎むのではなく、その人のうちに住む罪を憎むことです。なぜなら、神はひとり子を愛するほどに罪人である私達を愛しておられるからです。
 
同じように、私たちも罪をもったままでは、滅びてしまいます。このために、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、三日目によみがえられたのです。ノアに神様が心をとめられ、虹の約束を与えられたように、私達にも、神様は心をとめられ、イエス様の十字架の愛のしるしを与えて下さったのですから、これからは虹を見る時、ノアと結ばれた神様の愛の約束を思い出すと共に、いつどんな時にイエス様が再臨されても良いように、イエス様の愛と復活を信じ、従がいつつ歩ませて頂きましょう。

2007年9月23日 日曜日

神の2つの約束

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分56秒

創世記8章1-22節
 和子は、今西播磨めぐみ教会で礼拝と女性集会の御用のために行っていますので、お祈り下さい。
前回は予告されていた大洪水が起こり、箱舟に入ったノア一家と動物たちだけが助かったところまでを学びましたが、今日は、私たちにとって、ノアの箱舟がどのような意味をもつかを学びます。

第一は、神様の守りと導きにより、新しい地が現われたことです。
 全地に水が満ちる中、「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた」(創世記8:1)後に、洪水による破壊は、地上の回復へと転換します。ここで、神がノアと箱舟を「心に留めた」のは、「わたしは、あなたと契約を結ぼう。」(創世記6:18)というあらかじめノアに示した契約のご意志に基づくものです。
創世記8:1
8:1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。

創世記6:18
6:18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。

 神は、ノアと結んだ恵みの約束を心に覚え、ノアと生き物を救うべく、地上の回復のみわざを開始され、「水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現われた。」(創世記8:3,4)。このように、神の恵みによって、とうとう洪水による水は枯れ、地は乾き、新しくされた世界が姿を現すのです。

第二は、神の命により、「いっしょに」箱舟から出たことです。
「ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。 第二の月の二十七日、地はかわき」(創世記8:13,14)、神様はノアに「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。」(8:16)と。こうして全ての生き物は、広々とした新しい地上に再び降り立つことができました。

ここで4つのことがわかります。
1、ノアは、箱舟から外を見て地が乾いたのを知っていましたが、自分の思いで行動せず、神の命令によって箱舟に入り、また神の命令によって箱舟から出たのです。
 
2、ノアとその家族は神の命令によって、「いっしょに」(8:15)箱舟から出て来ました。一年間も箱舟の中にいたのですから、我先にと飛び出して来そうなものですが、彼らは箱舟の中で喜びも苦しみも互いに分ち合って生活していたので、「いっしょに」新しい世界に踏み出したのです。

3、それと同時に動物たちも、「いっしょに」(8:16)連れ出しなさいという神の命令に従い、ノアたちと共に新しい世界に出て来ます。この動物たちは「おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。」(19)。この表現は創世記一章において神がこれらの生き物を「その種類にしたがって」創造されたことを思い起させます。すなわち神は洪水によって滅ぼした動物をいわば「再創造」するために、箱舟の中で生き続けた動物たちを用いられたのです。
創世記8:15,16,17,19
8:15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
8:16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。
8:17 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
8:19 すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。

4、ノアと全ての生き物が箱舟から出たことは、「それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるように」(17)と、神が命じられているように、これは神の恵みの招きであり、使命(ミッション)を伴っています。神が洪水を起こされたのは、いたずらに地上にあるものを裁くためではなく、この世界と神との関係を正しく築き直すためでした。そこには人間だけでなく、あらゆる生き物が、神の前に祝福され、増え広がるのです。
 これらから、人間が生きるとは、あらゆる体験を通し、神の命令に従う時、祝福を受け、神との関係を正しく築き、キリストのみ姿に築き直すことが目的であることがわかります。そして信仰が整えられ、成長していくのです。ですから、すべてが益とされるということです。
第三は、全焼のいけにえをささげたことです。
 ノアは箱舟から出た後、大洪水から助けられ、新しくされた地上に、もう一度立つことができたことを心から感謝を表すために、「主のために祭壇」(8:20)を築きますが、これは「祭壇」についての聖書の最初の記述です。ノアにとって、箱舟を出てからしたいこと、しなければならないことがたくさんあったに違いありません。しかし、箱舟から出てまず第一にしたことは、主への祭壇を築き、「すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、」(8:20)全焼のいけにえとしてささげ、神への礼拝を優先したのです。これは、罪の贖いと主の救いに対する感謝、そして新しい歩みに際しての献身を表すものでした。私たちもまず第一に神を礼拝し、感謝と献身を新たにすることから始めることが大切でしょう。
創世記8:20
8:20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

第四は、神の2つの約束です。
神様は、ノアがささげた全焼のいけにえの「なだめのかおりをかがれ」(8:21)たことは、神様がノアの献身と祈りを受け入れたことを意味しています。ノアがささげたいけにえを受け入れた「主は心の中で」(8:21)仰せになられたことは、2つの約束でした。

その1、神は、地を再びのろわないとの約束です。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい」(8:21)と。かつて「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になっ」て(6:5)人と生き物を滅ぼされましたが、今度は、「人の心の思い計ることは、初めから悪であるから」(8:21)決して滅ぼすことはしないと言われたのです。
創世記8:21
8:21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。

創世記6:5
6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

矛盾するようですが、人は結局、罪人であり、初めから悪しきことしか考えられない。そのような罪人をその罪の故に罰するならば、そこには救いも赦しもありませんが、「ノアは神とともに歩んだ」(6:9)」人であったが、罪のない完全な人ではなかった。彼は神の憐れみを信じ、身代りの犠牲のいけにえをささげることによって罪の赦しとさばきからの救いとを求めたのです。私達は、動物ではなく、イエス・キリストの命の犠牲のいけにえ、つまり十字架の血をささげたことによって、神の裁きから救われるということです。
創世記6:9
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

その2、感謝の礼拝と神の祝福です。
洪水によって、地はその自然の秩序を狂わせてしまった。しかし神は再び「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」(8:22)と約束されました。人の生活と農耕に必要な自然の秩序が回復したのです。
こうして、箱舟をもってノアと生き物たちを救われた神は、彼ら残りの者を、新しくされた地上に導き、彼らを通して、世界に新たなる祝福を与えようとされたのです。
創世記8:22
8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

しかしその期限は、「地の続くかぎり」と限定し、やがてこの地の終りが来ることを暗示しています。
 ノアによって始められた新しい世界も、残念ながら再び人の罪の故に汚されて行く。根本的な解決は、主が送られる新しい天と新しい地以外にはないのです(Ⅱペテロ3:13)。
Ⅱペテロ3:12,13
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 神様の招きに応答し、箱舟に入ったものだけが、神様のさばきから救われ、全て神様が予告された通りになりました。このノアの箱舟の出来事は、イエス様の十字架の救いを指しています。罪と滅びから救われる方法は、ただ神様の約束を信じて従うことです。私たちは、罪を認めて告白し、イエス様の十字架が私の罪の身代わりだと信じるなら、誰でも罪が赦され、永遠の命が与えられます。イエス様を信じ、救いの箱舟である十字架の恵みを頂いた私達は、人を赦すことはそう簡単なことではありません。心の葛藤があります。しかしイエス・キリストの十字架の愛によって、互いに赦しあい、愛し合いましょう。

 

2007年9月16日 日曜日

アブラハムが尊敬されたわけ

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分29秒

創世記25章7,8節

 アブラハムの名まえは、あらゆる民族の間に、あらゆる時代を通じて、広い範囲にわたり尊敬の念を与えていますが、今日は、偉大な人物として、アブラハムが尊敬されたわけを考えてみましょう。

第一は、アブラハムが尊敬されたわけを7つあげます。
その1、彼の性格の根本に、大きな信仰であったことです。
「彼・アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)。その信仰があるために、彼は父祖の国を離れ、約束はされたけれどもはっきりと示されていない国に向かって、旅を続け(創世記12:1-4)、ロトに最善を選ばせる権利を譲ることができた(創世記13:14-18)。なぜなら彼は、神がご自分を信頼する者のためになさる以上のことを、だれもすることができないと確信していたからです。
創世記12:1-4
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。

創世記13:14-18
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。
その信仰のゆえに、神は約束の子を与えて下さるものと信じて、長年の間待ち望み、天幕に住んで放浪生活を送り、一度出た安住の地に帰ろうとしませんでした。まことに彼の魂は、神の都を待ち望む情熱によって燃え尽きるほどでした。その信仰のゆえに、彼はイサクをささげ、またサラを葬ることができた。そして信仰の実を結ばせて下さいまました。それが信仰の父と言われれた理由です。私達も、どのような境遇の中にあっても、神と共なる信仰姿勢を貫き通したいものです。
 
その2、彼は、男らしい勇気に、知識を加えたことです。
彼は一生の間、神を知る知識と、神のご性質に関する知識に進んだ。つまり、この世の知識とか知恵ではなく、主を畏れ、敬虔を修行した知識です。それは、神の視点で物事を、世界を見ていたからです。それを彼は習慣として身につけていたということです。私達も性格を変えることは難しいですが、日々の生活の中で習慣とするなら、身につけることが出来ます。

その3、彼は、知識に節制、あるいは自制力を加えたことです。
彼は、ソドム王の提供した贈り物を受け取らなかったこと(創世記14:21-24)、また彼とロトの家畜を飼う者たちとの争いがあっても、自らを抑制したこと(創世記13:7~)などによって、はっきりと証明することができます。最も強い精神の持ち主とは、自分自身を制する最大の力をもちつつ、普通の人間なら失敗してしまうことを成し遂げうる人のことです。自らを支配する人ほど、すぐれた性格の持ち主はいません。なぜなら、そのような人は神のしもべだからです。彼は自らを治めることができたために、他の人をも正しく治めることができたのです。
創世記14:21-24
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。
14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

創世記13:7~
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

その4、節制に忍耐を加えたことです。
ヘブルの記者は、「アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」と証言しています(ヘブル6:15)。つぶやかず、不平もこぼさず、ひたすら神の時を待つということは、尋常一様の忍耐ではできません。このような忍耐の持ち主は、地上の慰め、助けというようなものから乳離れして、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て」(詩篇131:2.3)と詩篇記者が語るように、自らを神にある平安が得られます。

その5、彼は忍耐に敬虔さを加えたことです。
彼の性格のうち最も主要な要素の一つは、敬虔さです。彼はその生涯において、神のご臨在を絶えず意識し、神への愛と献身の念を絶えず心にいだいていました。彼が天幕を張った所は、どこであっても、まっ先に祭壇を築き、神を礼拝するために心を配り、困難にぶつかるたびに、自然に顔を神に向け、彼の魂と神の間には非常にきよい交わりがあったので、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2:23)。これこそが、彼自身の敬虔さと神への愛を証明していると言えます。

その6、彼は信仰に兄弟愛を加えたことです。
 アブラハムは、「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(創世記17:18)とか、彼がイサクに対していだいていた愛情について、神ご自身が「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」(創世記22:2)と語る事実から、兄弟に対する愛情の深さを知ることができます。私達も、クリスチャンが互いに愛し合える教会へと建て上げていきたいものです。
創世記17:18
17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」

その7、彼は兄弟愛に愛を加えたことです。
彼は人に対して寛容であり、開放的でした。マクペラのほら穴のために要求された多い金額を、値切ったり不平を言ったりせず、喜んで支払った(創世記23:11-:18)。つまらない自負心をもたず、あいそうがよく、ていねいであり、大声で笑うことができた。また、神との正しい関係にあったので、人々の上に、温情があり、しかも気高い心から出る光線を注ぐことができた。
創世記23:11-:18
23:11 「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」
23:12 アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、
23:13 その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」
23:14 エフロンはアブラハムに答えて言った。
23:15 「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」
23:16 アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀四百シェケルを計ってエフロンに渡した。
23:17 こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、
23:18 その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。

私達も決してすぐれたものではありませんが、神は友として親しい交わりを保ち、その人の品性を人格を建て上げて下さいます。心という土壌と生涯とが全面的に神に明け渡されているなら、神はどのようなものをも、みごとに育て上げることがおできになるお方です。それゆえ、今からのち、私たち自身を偉大な農夫の御手にすっかりゆだね、私たちのうちに、みこころのよしとするところを完成し、力をもって信仰のわざを全うして下さるために、ただ、神を信じ、全面的に神を信頼することを身につけましょう。

第二は、神の民に加えられたことです。
「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」(創世記25:7)。彼はその民に加えられた。-これは、彼のからだをさすのではない。なぜなら、彼のからだは先祖たちのそばにあるのではなく、サラのそばに葬られたからである。それゆえ、彼の霊魂をさしていると言えます。

死ぬことは、私たちの民、天国の民に加わることです。数知れぬ同族が集まっていて、その人々の多くは、あなたを全く知らない人であるが、先方はあなたを知っている。それはまた、あなたが地上において、しばらくの間愛したのちに失った人たちでもあり、その人々が列を作り、大きな群れとなって、あなたが人生の生涯を終え、神の使命を全うして、そこに来ることを見守っている人々でもあります。ですから、その人たちを失望させてはならない。

また、私たちの死は、新しい加入者を歓声をあげて迎えてくれる国へと移されることでもあります。それは、すべての人々にも言えることです。滅びゆく魂が、神の民に加えられることを神が切望しています。だから「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)と、今も心の戸をたたき、尋ね求めておられるのです。私達も自分達だけでなく、「多くのわが民」が、神の民となるために、まず、まずあなた自身が信仰と愛とをもって神のもとに加えられること大切です。
創世記3:9
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

死ぬということは、私達と最も深い関わりもある人たちと再会することです。そしてその霊的な親族関係は永遠に続くものであり、それが私たちの目指しているみ国なのです。

私達の未来の世界は、こちらも知らないし、先方にも知られていないというような魂で満ちているということはありません。天国、そこはホームです。そして、そこにいる人を認め、愛することがなければ、どうしてホームと言えるでしょう。栄光ある復活体をもって現われた救い主イエス様を認め、そのイエス様を中心に、愛を感ずるところです。そのホームに帰ることが私達の目的であり、目標です。

あなたが今人生の途上、仕事の途上で、希望をもって生きている中で、急に死を迎えるとしたら、どうしますか。年齢に関係なく、残念・無念と感じる人もいれば、そうでない人もいます。なぜでしょう。それは、あなたにとってカナンの地が、どこかがはっきりしているなら、人生の長短・残念・無念と思わないでしょう。なぜなら、人生や仕事には限りがありませんが、終わりは必ず来ます。人間的に見るなら、死ねない・生きたいと願うかもしれないが、神の視点に立つなら、人生はすべて神の御手のうちにあり、時と使命、特に生きるという使命は神の御手の中にゆだねることが出来るからです。私達の人生も神の視点に立ち、敬虔な生涯でありたいです。そして神に栄光と賛美を帰し、私達の目指すカナンの地、神と共にいる聖徒達の待っている天のみ国に向かって歩ませて頂きましょう。

2007年9月15日 土曜日

2007年9月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 19時40分19秒

百歳をこえた双子の姉妹金さん・銀さんがテレビのコマーシャルで活躍していたころ、レポーターが「出演料は何に使うのですか」と尋ねました。「老後のために貯金します」と答えたそうです。可愛いユーモアです。日本は豊かですが、それは経済面特にお金のことでしょう。「格差社会」を、ある心理学者は「格差病社会」と呼んでいます。格差そのものは、米国のほうが何倍も大きいのですが、格差社会と大声で叫ばれるのは日本です。欧米やアジアでは、金銭的価値と、宗教的倫理的価値観がはっきりとあるが、日本はすべてをお金ではかる「拝金教」しかない、と言います。金銭に豊かな人はもっと、と言って満足せず、持たない人はみじめさを感じて満足しない、という貧しい社会に日本はなったのです。
「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(新約聖書ピリピ人への手紙4章11節)

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