アブラハムが尊敬されたわけ
創世記25章7,8節
アブラハムの名まえは、あらゆる民族の間に、あらゆる時代を通じて、広い範囲にわたり尊敬の念を与えていますが、今日は、偉大な人物として、アブラハムが尊敬されたわけを考えてみましょう。
第一は、アブラハムが尊敬されたわけを7つあげます。
その1、彼の性格の根本に、大きな信仰であったことです。
「彼・アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)。その信仰があるために、彼は父祖の国を離れ、約束はされたけれどもはっきりと示されていない国に向かって、旅を続け(創世記12:1-4)、ロトに最善を選ばせる権利を譲ることができた(創世記13:14-18)。なぜなら彼は、神がご自分を信頼する者のためになさる以上のことを、だれもすることができないと確信していたからです。
創世記12:1-4
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
創世記13:14-18
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。
その信仰のゆえに、神は約束の子を与えて下さるものと信じて、長年の間待ち望み、天幕に住んで放浪生活を送り、一度出た安住の地に帰ろうとしませんでした。まことに彼の魂は、神の都を待ち望む情熱によって燃え尽きるほどでした。その信仰のゆえに、彼はイサクをささげ、またサラを葬ることができた。そして信仰の実を結ばせて下さいまました。それが信仰の父と言われれた理由です。私達も、どのような境遇の中にあっても、神と共なる信仰姿勢を貫き通したいものです。
その2、彼は、男らしい勇気に、知識を加えたことです。
彼は一生の間、神を知る知識と、神のご性質に関する知識に進んだ。つまり、この世の知識とか知恵ではなく、主を畏れ、敬虔を修行した知識です。それは、神の視点で物事を、世界を見ていたからです。それを彼は習慣として身につけていたということです。私達も性格を変えることは難しいですが、日々の生活の中で習慣とするなら、身につけることが出来ます。
その3、彼は、知識に節制、あるいは自制力を加えたことです。
彼は、ソドム王の提供した贈り物を受け取らなかったこと(創世記14:21-24)、また彼とロトの家畜を飼う者たちとの争いがあっても、自らを抑制したこと(創世記13:7~)などによって、はっきりと証明することができます。最も強い精神の持ち主とは、自分自身を制する最大の力をもちつつ、普通の人間なら失敗してしまうことを成し遂げうる人のことです。自らを支配する人ほど、すぐれた性格の持ち主はいません。なぜなら、そのような人は神のしもべだからです。彼は自らを治めることができたために、他の人をも正しく治めることができたのです。
創世記14:21-24
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。
14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
創世記13:7~
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
その4、節制に忍耐を加えたことです。
ヘブルの記者は、「アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」と証言しています(ヘブル6:15)。つぶやかず、不平もこぼさず、ひたすら神の時を待つということは、尋常一様の忍耐ではできません。このような忍耐の持ち主は、地上の慰め、助けというようなものから乳離れして、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て」(詩篇131:2.3)と詩篇記者が語るように、自らを神にある平安が得られます。
その5、彼は忍耐に敬虔さを加えたことです。
彼の性格のうち最も主要な要素の一つは、敬虔さです。彼はその生涯において、神のご臨在を絶えず意識し、神への愛と献身の念を絶えず心にいだいていました。彼が天幕を張った所は、どこであっても、まっ先に祭壇を築き、神を礼拝するために心を配り、困難にぶつかるたびに、自然に顔を神に向け、彼の魂と神の間には非常にきよい交わりがあったので、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2:23)。これこそが、彼自身の敬虔さと神への愛を証明していると言えます。
その6、彼は信仰に兄弟愛を加えたことです。
アブラハムは、「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(創世記17:18)とか、彼がイサクに対していだいていた愛情について、神ご自身が「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」(創世記22:2)と語る事実から、兄弟に対する愛情の深さを知ることができます。私達も、クリスチャンが互いに愛し合える教会へと建て上げていきたいものです。
創世記17:18
17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」
その7、彼は兄弟愛に愛を加えたことです。
彼は人に対して寛容であり、開放的でした。マクペラのほら穴のために要求された多い金額を、値切ったり不平を言ったりせず、喜んで支払った(創世記23:11-:18)。つまらない自負心をもたず、あいそうがよく、ていねいであり、大声で笑うことができた。また、神との正しい関係にあったので、人々の上に、温情があり、しかも気高い心から出る光線を注ぐことができた。
創世記23:11-:18
23:11 「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」
23:12 アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、
23:13 その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」
23:14 エフロンはアブラハムに答えて言った。
23:15 「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」
23:16 アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀四百シェケルを計ってエフロンに渡した。
23:17 こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、
23:18 その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。
私達も決してすぐれたものではありませんが、神は友として親しい交わりを保ち、その人の品性を人格を建て上げて下さいます。心という土壌と生涯とが全面的に神に明け渡されているなら、神はどのようなものをも、みごとに育て上げることがおできになるお方です。それゆえ、今からのち、私たち自身を偉大な農夫の御手にすっかりゆだね、私たちのうちに、みこころのよしとするところを完成し、力をもって信仰のわざを全うして下さるために、ただ、神を信じ、全面的に神を信頼することを身につけましょう。
第二は、神の民に加えられたことです。
「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」(創世記25:7)。彼はその民に加えられた。-これは、彼のからだをさすのではない。なぜなら、彼のからだは先祖たちのそばにあるのではなく、サラのそばに葬られたからである。それゆえ、彼の霊魂をさしていると言えます。
死ぬことは、私たちの民、天国の民に加わることです。数知れぬ同族が集まっていて、その人々の多くは、あなたを全く知らない人であるが、先方はあなたを知っている。それはまた、あなたが地上において、しばらくの間愛したのちに失った人たちでもあり、その人々が列を作り、大きな群れとなって、あなたが人生の生涯を終え、神の使命を全うして、そこに来ることを見守っている人々でもあります。ですから、その人たちを失望させてはならない。
また、私たちの死は、新しい加入者を歓声をあげて迎えてくれる国へと移されることでもあります。それは、すべての人々にも言えることです。滅びゆく魂が、神の民に加えられることを神が切望しています。だから「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)と、今も心の戸をたたき、尋ね求めておられるのです。私達も自分達だけでなく、「多くのわが民」が、神の民となるために、まず、まずあなた自身が信仰と愛とをもって神のもとに加えられること大切です。
創世記3:9
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
死ぬということは、私達と最も深い関わりもある人たちと再会することです。そしてその霊的な親族関係は永遠に続くものであり、それが私たちの目指しているみ国なのです。
私達の未来の世界は、こちらも知らないし、先方にも知られていないというような魂で満ちているということはありません。天国、そこはホームです。そして、そこにいる人を認め、愛することがなければ、どうしてホームと言えるでしょう。栄光ある復活体をもって現われた救い主イエス様を認め、そのイエス様を中心に、愛を感ずるところです。そのホームに帰ることが私達の目的であり、目標です。
あなたが今人生の途上、仕事の途上で、希望をもって生きている中で、急に死を迎えるとしたら、どうしますか。年齢に関係なく、残念・無念と感じる人もいれば、そうでない人もいます。なぜでしょう。それは、あなたにとってカナンの地が、どこかがはっきりしているなら、人生の長短・残念・無念と思わないでしょう。なぜなら、人生や仕事には限りがありませんが、終わりは必ず来ます。人間的に見るなら、死ねない・生きたいと願うかもしれないが、神の視点に立つなら、人生はすべて神の御手のうちにあり、時と使命、特に生きるという使命は神の御手の中にゆだねることが出来るからです。私達の人生も神の視点に立ち、敬虔な生涯でありたいです。そして神に栄光と賛美を帰し、私達の目指すカナンの地、神と共にいる聖徒達の待っている天のみ国に向かって歩ませて頂きましょう。
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