2007年10月28日 日曜日

神とアブラハムとの関係に学ぶ

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分09秒

創世記22章1-14節
今日は「神とアブラハムとの関係」について学びましょう。
第一は、神の試練です。
イサクが誕生し、様々な出来事の中にも順調に成長し、神の約束がこのまま成就して行くかと思われた時、神はアブラハムを試練にあわせられました。神が信仰者を試練にあわせるのは、時として神から離れ、迷い出している時、神は試練を通して悔い改めに導き、信仰を回復させる目的もありますが、この時は、神が「アブラハムよ」と呼びかけると、彼は「はい。ここにおります」(22:1)と答えています。彼は神の呼びかけに対して、全人格的な応答をしていますから、彼が神との正しい関係にあったということを意味し、試みを受けること自体は罪ではなく、神がみこころによって、信仰者の信仰と献身を深めるために試練を与えることもあることをも知る必要があります。
創世記22:1
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。

第二は、神の命令です(22:2)
 「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを……ささげなさい」(22:2)。神はイサクがアブラハムの「ひとり子」であり、アブラハムが、どんなにイサクを愛しているかを知った上で、神はイサクをささげよ、と命じられたのです。神は私達にも、私達が最も大切にしているものをささげるように求められる時があります。
創世記22:2
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

 更に神は、イサクを「全焼のいけにえ」(22:2)としてささげよと言われました。全焼のいけにえにするためには、動物を殺し、それを全部ささげ、祭壇の上で焼いて煙にしなければなりません。アブラハムにイサクを完全にささげるように命じられたのです。
 このような神の命令に対して、アブラハムは3つの点で反論することができたはずです。その1、「全焼のいけにえ」としてささげるということは、「人を殺す」ことになり、神御自身の命令(9:6)に反します。
創世記9;6
9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。

その2、親が自分の子を殺すということは人情に反します。

その3、イサクは神がアブラハムに与えた契約の子であり、このイサクを殺すことはイサクを通して成就するはずの神の約束と計画が無になるということです。しかし、彼は反論せずに主の命令に従いました。なぜでしょうか、4つ考えられます。
その1、神の命令の中に「あなたの愛しているひとり子イサク」と語るように、アブラハムは、神が意味もなく彼を苦しめるはずがないという信仰です。

その2、神は、アブラハムがひとり子イサクをどんなに愛しているかをよく理解した上でこの命令を下しておられる、という、つまり、神は冷酷な方ではなく、神は愛の神であるという信仰です。

その3、「イサクをわたしに」ささげよと言っていることから、イサクはもともと子供を産むことが不可能であったアブラハム夫妻に、「神が」お与えになった子供ゆえに、神にささげることは当然という、つまり「主は与え、主は取られる」(ヨブ1:21)という信仰です。
ヨブ1:21
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

その4、「わたしにささげよ」と言われる神は、御自身の計画を持っておられ、その計画の前進のために命じておられるという信仰です。
 これらから、アブラハムはあくまで真の神を神として崇めていたということです。

第三は、アブラハムの信仰(22:3-10)です。
 神の命令に対して、アブラハムは4つの面で応答しています。
創世記22:3,5,7,8
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

第一の面は、3つの点で従順でした。
 その1、アブラハムは「翌朝早く」(22:3)、速やかに、主の命令に従いました。その2、彼は、自分で全焼のいけにえのためのたきぎを割って(22:3)、自ら労苦して主の命令に従いました。その3、彼は、「神がお告げになった場所へ出かけて行った」(22:3)とあるように、彼は自分の都合で自分勝手な行動をせず、みことば通りに主に従いました。
 私達も常に神のみこえに、素直に聞き従がう姿勢を持ちたいものです。

第二の面は、確信です。
 アブラハムには、自分は主の命令に従うのだから、主は必ず御自身の計画を実現して下さるという確信があった。それ故彼は「私と子どもとは……あなたがたのところに戻って来る」(22:5)と言えたのです。

第三の面は、確信に基づく主への信頼です。
 イサクの「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」(22:7)に対して、アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」(22:8)という、主への全幅の信頼を持っていたのです。
 
第四の面は、神への献身です。
 アブラハムは告げられた場所に着き、その所に祭壇を築き、イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置き、刀を取って自分の子をほふろうとした行為は、彼がイサクをささげることによって、自分自身を神に全くささげ切ったのです。また、ここにアブラハムだけでなく、イサクの信仰と従順を見ることができます。

第四は、主の備え(22:11-14)と条件で、3つあげられます。
創世記22:11-14
22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

(1)主の呼びかけです。
主は、アブラハムがイサクを主にささげたと認められるまでは黙しておられたが、アブラハムの献身という条件を確認した時に、ついに「アブラハム。アブラハム」(22:11)と御声をかけられたのです。
主の使いの呼びかけに対してアブラハムは、「はい。ここにおります」(22:11)と答えています。つまり彼はイサクをささげた時、異常な精神状態にあったのではなく、むしろ冷静に、主との生き生きした交わりの中にあったと言えます。

(2)主の承認です。
 主は、アブラハムが「自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(22:12)ことを認め、それによって神を恐れるアブラハムの信仰を受け入れて下さったのです。

(3)主の備えです。
アブラハムが「目を上げて見る」(22:13)時まで、彼は、主御自身と、主へのささげ物としてのイサク以外には目を留めていませんが、主のみことばによって、イサクに手を下してはならないことを知った時、初めて「目を上げて」見ると、神ご自身が、全焼のいけにえとして備えて下さった一頭の雄羊がいたので、「それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた」(22:13)のですが、神は彼の信仰姿勢を見て、すべての必要を備えてくださったのです。私達も、「主が備えて下さる」(22:14)という信仰姿勢で歩ませて頂きたいものです。

第五は、なぜアブラハムはこのような信仰に立つことが出来たかです。
アブラハムが神のみことばに聞き従って歩んでいきました。時には不信仰や不敬虔な時、失敗した時もありました。また、時には神が遠くにおられて、神と語ることが出来ず、孤独に悩み、苦しんだ時もありました。信仰者にとって、地上の地位・名誉・物質の豊かさよりも、神との語り合い、つまり神との交わりが絶たれるほどつらく、悲しいことはありません。その時、人は悩み、神に「どうしてですか、なぜですか、なぜ語って下さらないのですか。」と告白します。しかし、神は何も語らない、心はますます神から遠く離れたように感じます。ヨブもそうでした。アブラハムも13年間、神との交わりがたたれた時が、イサクをささげた時以上に悩み、苦しんだのではないでしょうか。イサクをささげる時も、神は何も語りませんでした。そしてイサクを祭壇にささげ、いよいよ刀を振りかざした時、神は沈黙を破って、「待て」と言われ、ささげる動物である羊を用意されたのです。またアブラハムが13年間、神が沈黙されていた時のことは記されていません。

 そのように、神は、私から遠ざかったのでしょうか。いいえ。神はただ時を待っておられただけなのです。神は言います。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)と約束されるように、
私たちの感情は、「神は私から遠く離れている、神はもういない、わからない」と感じたとしても、神は生きて働いておられ、私を愛をもって見守っておられるのです。そのことさえ知っていれば、神との関係を感情によって左右されることはないのです。そのようなことは人生でしばしばおきることであることを理解することです。
ヘブル13:5
13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ですから、信仰はいつか回復します。そして、神との関係が深められます。それはアブラハムの信仰を見ればわかります。神は時にかなって、みことばをもって語って下さいます。それが信仰による義とされるゆえんです。アブラハム自身が、信仰を感情の起伏に左右されることながったかといえば、そうではありませんでした。しかし、神はそれらをすべてご存知の上で、アブラハムを信仰による義とされたのです。

私達も感情に左右されます。人間とはそのような存在ですが、だからと言って、神はあなたから離れるようなお方ではありません。あなたの感情が高ぶっている時は神はいるが。落ち込んでいる時は神はいないなどというお方ではありません。人間の感情に左右されるお方ではありませんから、心配する必要はありません。また、愛もかわることはありません。なぜなら、あなたを導いておられるのは、まぎれもなく神ご自身だからです。

2007年10月21日 日曜日

バアルの神との対決

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分34秒

第一列王記18章1-46節
 今日は、子供達と礼拝をささげることが出来ますことを感謝します。
今日もエリヤさんのお話で、偽物のバアルの神との戦いです。
先週のお話から三年が過ぎました。まだ雨は降りません。雨が降らないとどうなるでしょう。くだものや野菜、植物が育たないので、食べ物も水もなくなります。皆さん、食べないとどうなるでしょう。お腹がすいて、ぐーと鳴ります。水を飲まないとどうなるでしょう。のどが渇いて、水がほしくなります。それが3年も続いたのですから、みんな困ったでしょうね。

第一は、アハブ王に会うエリヤです。
 ある日、神様は、エリヤに、「アハブに会いに行け。」(18:1)とおっしゃいました。アハブ王はやっぱり、偽物のバアルを神様として拝んでいました。アハブ王は、エリヤの顔を見るなり「雨が降らないのは、おまえのせいだ。」(18:17-19)と。

エリヤは「いいえ、違います。王様が本当の神様を大切にしないでバアルを拝んでいるからです。王様、私の神様とバアルとどちらが本当の神様か、山の上で教えてあげましょう。」(18:17-19)と言いました。
1列王18:1,17-19
18:1 それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」
18:17 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」
18:18 エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。
18:19 さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」

第二は、大声で祈るバアルの預言者です。
 カルメル山という山に大勢のイスラエル人とバアルの預言者たち、見物人が大勢集まりました。バアルの預言者は四百五十人もいます。エリヤが大声で「あなたがたは、いつまで『どっちが本当の神様だろう』と迷っているのですか。私が信じる神様とバアル、どちらが本当の神様か、勝負しましょう。」(18:21)と言って、次のように説明しました。「ささげものである雄の牛を2頭用意しなさい。一つは偽物のバアルのために。もう一つは私の神様のために。祭壇の上に薪とささげものを置きます。そして、お祈りをしましょう。お祈りに答えて火をつけて下さった方が本当の神様です。」みんな、「それがよい。」(18:23,24)と言いました。
 まず、バアルの預言者たちが祈りました。「バアルよ。私たちに答えてください。」(18:26)。でも、祭壇の上の薪に火はつきません。一生懸命声を張り上げて祈り続けます。ついに、踊ったり、夢中になって身体を傷つけたり、大変な騒ぎです。
エリヤは「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに夢中になっているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらいいでしょう。」(18:27)と言うと、預言者たちは、ますます大声で叫び続け, 朝から祈り始めて、とうとうお昼になりましたが、火はつきませんでした。           
1列王18:21-24,26,27
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。
18:23 彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
18:24 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。
18:26 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
18:27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」

第三は、天からの火です。
 今度はエリヤの番です。「みなさん、いらしゃい」と言うと、エリヤの周りに人が集まり、エリヤは大きな石で祭壇を造ると、ささげ物をのせ、その上に水をたっぷりかけました。ささげ物も、薪はぴしょぬれです。エリヤは静かに「私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であることを知るようにしてください。」(18:37)と祈り始めました。すると天から火が降ってきて、「ボー」と祭壇の上の薪が燃え始めました。ささげものも薪も焼き尽くし、祭壇と周りの水もすっかり乾いてしまいました。
 これを見ていたイスラエルの人々は、エリヤが信じている神こそ「神です。主こそ神です。」(18:39)と言って、ひれ伏しました。本当の神様がわかったのです。
1列王18:37,39
18:37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。

第四は、祈りに答えられて、雨が降るです。
その後、エリヤはカルメル山の頂上に登って、神様にお祈りしました。それから、一人の若者に「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」(18:43)と言いました。若者はすぐに見てきて、「何もありません。」(18:43)と言いました。するとエリヤは、「七回くり返しなさい。」(18:43)と言いました。若者はエリヤの言うとおりにしました。五回目、六回目、何も起こりません。七回目に若者は、『あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。』」(18:44)と叫びました。小さな雲はすぐ空いっぱいに広がって、大雨になりました。
1列王18:43,44,45
18:43 それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」
18:44 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
18:45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。

 イスラエルの人たちは大喜び。何年も待っていた雨が降ってきたのです。私達もつらいこと、苦しいこと、いじめられることがあります。しかし、聖書の神様は生きて働いておられる素晴らしい神様です。この世界・宇宙を造られた神様は、ひとり子イエス様を、神様に喜ばれない、悲しいことをしてしまう私達の罪を、私達にかわって、その身に負って十字架にかかり、血を流し、死んで下さいました。しかし、3日目によみがえられたイエス様を信じるなら罪が赦され、天国に行くことが出来る道を作って下さった愛の神様です。その神様を心にお迎えして生活をしましょう。

「神様、本当の神様を知ることができて感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

2007年10月15日 月曜日

2007年10月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 20時45分35秒

あなたは眠れますか?
考えてみれば、眠れるというのは、当たり前ではないのです。
平安があるから眠れるのです。
「大丈夫、ここは安心」そう思えるから眠れるわけで、
赤ちゃんが母親に抱かれている姿を見れば、よく解ります。
赤ちゃんが泣くと、親は「大丈夫だよ」と言って、
トントンと子供の体をそっと叩いて眠らせます。
たとえ何も状況が変わらなくても。
あなたは、そのような「安らぎの場」「ここは安心」と言える場所が心にありますか?
霊の親である真の神様は、あなたに平安を与えようと招いておられます。
あなたも、どのような状況の中にあっても、常に平安になれる場所を見つけませんか?
「あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
(新約聖書ヨハネによる福音書16章33節)

2007年10月14日 日曜日

信仰の父アブラムの生涯に学ぶ

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分51秒

創世記15章1-6節
 
 アブラムが「望み得ないのに、なおも望みつつ信じ」(ローマ4・18)たゆえに、神は義と認めて下さいました。今日は、先週に引き続き、信仰の父アブラムの生涯に学ぶから信仰の義について考えましょう。
ローマ4・18
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。

第一は、アブラムの不安です。
神だけを信頼してカナンの地に来たアブラムを神は豊かに祝福し、13章では、多くの家畜を与え、14章では、敵をも打ち破って下さいましたが、どうしても足りないものがありました。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」(12:7)と、アブラムとサライに、神は約束されましたが、10年ほどたっても子どもが授からなかったので不安がありました。
創世記12:7
12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

第二は、自分の弱さを認めることによる、アブラムへの神の励ましです。
ある晩のことです。神様が再び現れて「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(15:1)と語られた時、アブラムは自分の心の内にある思いを神様に打ち明けて「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」(15:2、3) と尋ねます。それに対して神は「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」(15:4)と、約束を確認されたのです。
創世記15:1-3
15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。

信仰の父と言われる人も、時には疑いをもつような弱い存在であることを、神は十分ご存じです。ですから、神は私達に「恐れるな」と励まして下さいます。私たちがどんなに弱くても、神は決して私達を離れず、見捨てません。ですから、自分の弱さを正直に認めることです。

第三は、神の強さを認めることです。
 アブラムを、神は天幕の外に連れ出し、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」」(15:5)と言われた時、彼は3つのことに気付きます。①「自分はとても星を数えることはできない」という、人間の能力の限界を知り、②「神はこの無数の星を創造された」という神の偉大さ、③「天地とその中にある全てのものを創造されたお方なのだ」という、無から「天」を創造され、満天の星を作られた主は、年老いたアブラムから、この星のように多くの子孫を生み出すという約束を守られる神の力に気付くのです。

 それゆえ、神が「あなたの子孫はこのようになる。」(15:5)と言われた時、彼はその言葉を、そのまま受け入れ、「天地宇宙を創造されたお方なら、私に子を与えることができないはずはない。約束は必ず実現する」と。そのように、神の強さ、神の全能を知ったなら、私たちの信仰は本物になります。たとい現在の状況がどんなものであっても、全能の神は必ず約束を成就されるお方であることを信じましょう。
創世記15:5
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

第四は、約束のものを手にするには、忍耐強く待ち望むことです。
 「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)と語るように、神様は、アブラムが主の言葉を信じたことをとても喜ばれ、アブラムを義と認めて下さいました。つまり、神様の前に信仰によって正しい者と認められたのです。

 しかし、実際にはまだまだ約束の実現には至りませんでした。神がアブラムの75歳の時「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」(12:7)との約束から25年が経ちましたが、神は約束を必ず成就なさるが、そこには人知を越えた深いご計画があります。だから忍耐強く待たなければなりません。この25年の間に、アブラムはつかえめハガルによって子を得ようとする失敗を犯します(16章)が、神は17章で、再度彼に現れ、約束を確認されます(17:1)。聖書に「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」(ローマ4:19)と賞賛し、「だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」と結論づけています(ローマ4・22)。
ローマ4:19
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

ローマ4・22
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

そして神様はアブラムにアブラハム「国民の父」(17:5)という名前を、奥さんのサライにはサラ「国々の母」(17:16)という新しい名前まで下さって、約束通りアブラハムをイスラエル民族の父祖、基として下さったのです。そして、子孫は星の数のように増えつづけ、現在に至っています。驚くことに、イエス様もアブラハムの子孫として生まれたと聖書に記されています。そして、イエス様が成しとげて下さった十字架による救いの業は、これを信じるすべての人に罪の赦しを与え、信仰によって神の子とされるという、人類最高の祝福の基となったのです。
創世記17:5
17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。

創世記17:16
17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるのは、何の失敗もしなかったからではありません。彼も不信仰に陥ることがありましたが、全能の神がその弱い彼に何度もみ言葉を与えられ、彼は、その約束のみ言葉を信じたからこそ、彼は義と認められたのです。本当の信仰とは、弱いからこそ、全能の神に信頼し続けることです。

 私達は、自分の内側を見詰めても、そこに信仰を見出すことは出来ません。むしろ、自分が不信仰で、不敬虔な者であることに気付きます。しかし、目を神ご自身に向ける時、恵みによって、不信仰で不敬虔な者をも義と認めて下さるお方を信じることが出来るのです。
 私たちもアブラハムの生涯を学ぶことを通して、神様は必ずなして下さることをみことばを通して信じ、あきらめずに、神の時を信じ、従がう者とさせて頂きましょう。

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