新しいいのちの創造
コリント人への手紙 第二 5章11-19節
以前、神様が天地万物を創造されたことを学びましたが、実は神様は、今も私たち人間の内に新しい創造の御業をなして下さるお方です。今日学ぶ新しいいのちの創造については、天国に行くその日まで求め続けることとして考えてみましょう。
第一は、新しく造られた者の目的です。
人間はもともと、神様を中心に、神様と交わり、神様を愛し、神様に従って生きるように造られましたが、アダムが罪を犯した時から、人は自分勝手に生きる者となった私達を、もう一度新しく造って下さるのは、人間がもはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえられたイエス様のために生きるようになるためです。
先ほど読んで頂きました5:17節の「だれでもキリストのうちにあるなら、」(5:17)というみことばは、神による人間への新創造のみわざは、十字架につけられたイエス・キリストを通してなされ、エペソ2章で語るように、人は、イエス・キリストを信じる信仰によって救われ、新生すること(エペソ2・1~10)、そしてキリストのよみがえりの命に与るキリスト者は、文字通りキリストに属する者として、聖霊の働きの内に終末を待ち望みつつ、キリストの体なる教会を形成し、神の新創造に参与する者として、キリストの内(と共)にあり続けるのです。
Ⅱコリント5:17
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
エペソ2・1~10
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
第二は、神様による新しい創造の御業は、どのような方法によって私達の内になされるかです。
罪をもったままでは、神様のために生きることはできません。それゆえ、罪のないイエス様が人間の罪の全てを背負って十字架で完全に処分され、「私たちのそむきの罪を私たちから遠く離れ」(詩篇103:12)させて下さいました。イエス様の十字架を信じるその人の内に、神様は新しい命を与えて下さいます。よみがえられたイエス様の命によって、全てが新しくされるのです。その命の力は、私達の「内なる人は日々新たにされ」(Ⅱコリント4・16)、「キリストに似た者」(1ヨハネ3:2)に日々造り変えて下さいます。つまりキリストを信じるすべての人は、キリストと共に、十字架につけられて死に、新しいいのちが与えられる。それが神様による新創造の御業なのです。
詩篇103:12
103:12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
Ⅱコリント4・16
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
1ヨハネ3:2
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
第三は、新しく造られた者は、キリストの愛に迫られる者です。
新しく造られたキリスト者は、イエス・キリストとの新しい関係に入り、もはや、以前のようにキリストを「人間的な標準」(5:16節)で知ることをしない、キリストを歴史的認識や信仰の対象としてだけてなく、救い主、深い人格的な関係を結ぶべきお方として見、心で知るようになります。
人格的な関係とは、互いの自発的な愛を基礎に置くべきものですが、ここでパウロが体験する「キリストの愛」(5:14)とは、まさしくキリストのご人格の内より流れ出る、尽きない自己を与える愛をもといとして、キリストとの深い人格的な交わりの中にあって、この「キリストの愛が私たちを取り囲」(5:14)み、それが尽きる事のない無条件の愛となって現わされ、それが私の心を満たし、与える愛という形に表されるのです。
Ⅱコリント5:14,15,16
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
すなわち、新しい命を持つキリスト者は、キリストとの交わりのうちに、ひしひしと感じる、絶えることのない愛の迫りのゆえに、もはやキリストの愛に応えて、「自分のために死んでよみがえった方のために生きる」(5:15)存在であることを、はっきりと自覚するのです。キリストの愛の迫りとは、新しく造られたキリスト者が、主との絶えざる人格的交わりの中で与えられる宣教の力の源泉であり、この力を受けて自らの奉仕に勤しむのです。
第四は、新しく造られた者の使命は何か。それは和解の福音を委ねられている者としての使命です。
新しく造られたキリスト者は、神との新しい関係、つまり、神と和解できた人で、神様はその人に、イエス様こそ唯一まことの救い主であることを伝える務めを委ねて下さいます。
ローマ人への手紙によれば、人は神に対して「かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げ」(ローマ2:5)、神の「敵であった私たち」(ローマ5・10)を、神は罪過の責任を私たち人間に負わせることをせず、「御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのこと」(ローマ5:10)キリストの復活によって、私達は日々罪から救われているのです。
ローマ2:5
2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
ローマ5:10
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
しかも、神はキリストによって、神との和解に与った私達に、神と敵対している者たちに和解をもたらす「和解の務め、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(15:18,19節)。
それゆえに神によって新しくされたキリスト者は、和解の福音を委ねられた「キリストの使節」(5・20)、つまり、キリストに代わって、人々に神の和解を受け入れるように語る使者として、深く自覚し、和解の福音を携えて宣教の業に励みなさい。それがキリスト者の使命ですよ、とパウロは私達に語るのです。
Ⅱコリント5:18-20
5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
現実を見ると、失望し、落胆し、「そう言われても、私には出来ない」としり込みするかもしれません。その時忘れてはならないことは、イエス様が「あなたはわたしにどうしてほしいのか」と尋ねておられる。イエスは、すべてのことをご存知ですが、あなたの人生であり、その人生は、あなた自身の問題であり、責任として受け止めることを意味しています。そして、私達がするのではなく、私達を通して神がなさるのです。私たちには、そのような力はありませんが、私達には助け主、聖霊様がおられます。自分で自分の心を造り変えることはできません。しかし、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(15:17)。イエス様を救い主と信じて、神様とのいのちの交わりを持つならば、その人は新しく造られた者となるのです。天地を造られたまことの神様だけが、イエス様による新しい創造の御業を、今も私たちの内になすことができる、ただ一人のお方なのです。
私達もイエス様によって新しく造り変えて頂いて、新しい命に生きる者としてふさわしく、キリストの愛に応えて和解の福音を宜べ伝えると共に、イエス様のために生きる者とさせて頂きましょう。
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