2007年11月25日 日曜日

新しいいのちの創造

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分18秒

コリント人への手紙 第二 5章11-19節
 以前、神様が天地万物を創造されたことを学びましたが、実は神様は、今も私たち人間の内に新しい創造の御業をなして下さるお方です。今日学ぶ新しいいのちの創造については、天国に行くその日まで求め続けることとして考えてみましょう。

第一は、新しく造られた者の目的です。
 人間はもともと、神様を中心に、神様と交わり、神様を愛し、神様に従って生きるように造られましたが、アダムが罪を犯した時から、人は自分勝手に生きる者となった私達を、もう一度新しく造って下さるのは、人間がもはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえられたイエス様のために生きるようになるためです。

先ほど読んで頂きました5:17節の「だれでもキリストのうちにあるなら、」(5:17)というみことばは、神による人間への新創造のみわざは、十字架につけられたイエス・キリストを通してなされ、エペソ2章で語るように、人は、イエス・キリストを信じる信仰によって救われ、新生すること(エペソ2・1~10)、そしてキリストのよみがえりの命に与るキリスト者は、文字通りキリストに属する者として、聖霊の働きの内に終末を待ち望みつつ、キリストの体なる教会を形成し、神の新創造に参与する者として、キリストの内(と共)にあり続けるのです。
Ⅱコリント5:17
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

エペソ2・1~10
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

第二は、神様による新しい創造の御業は、どのような方法によって私達の内になされるかです。
 罪をもったままでは、神様のために生きることはできません。それゆえ、罪のないイエス様が人間の罪の全てを背負って十字架で完全に処分され、「私たちのそむきの罪を私たちから遠く離れ」(詩篇103:12)させて下さいました。イエス様の十字架を信じるその人の内に、神様は新しい命を与えて下さいます。よみがえられたイエス様の命によって、全てが新しくされるのです。その命の力は、私達の「内なる人は日々新たにされ」(Ⅱコリント4・16)、「キリストに似た者」(1ヨハネ3:2)に日々造り変えて下さいます。つまりキリストを信じるすべての人は、キリストと共に、十字架につけられて死に、新しいいのちが与えられる。それが神様による新創造の御業なのです。
詩篇103:12
103:12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

Ⅱコリント4・16
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

1ヨハネ3:2
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

第三は、新しく造られた者は、キリストの愛に迫られる者です。
 新しく造られたキリスト者は、イエス・キリストとの新しい関係に入り、もはや、以前のようにキリストを「人間的な標準」(5:16節)で知ることをしない、キリストを歴史的認識や信仰の対象としてだけてなく、救い主、深い人格的な関係を結ぶべきお方として見、心で知るようになります。

 人格的な関係とは、互いの自発的な愛を基礎に置くべきものですが、ここでパウロが体験する「キリストの愛」(5:14)とは、まさしくキリストのご人格の内より流れ出る、尽きない自己を与える愛をもといとして、キリストとの深い人格的な交わりの中にあって、この「キリストの愛が私たちを取り囲」(5:14)み、それが尽きる事のない無条件の愛となって現わされ、それが私の心を満たし、与える愛という形に表されるのです。
Ⅱコリント5:14,15,16
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

 すなわち、新しい命を持つキリスト者は、キリストとの交わりのうちに、ひしひしと感じる、絶えることのない愛の迫りのゆえに、もはやキリストの愛に応えて、「自分のために死んでよみがえった方のために生きる」(5:15)存在であることを、はっきりと自覚するのです。キリストの愛の迫りとは、新しく造られたキリスト者が、主との絶えざる人格的交わりの中で与えられる宣教の力の源泉であり、この力を受けて自らの奉仕に勤しむのです。

第四は、新しく造られた者の使命は何か。それは和解の福音を委ねられている者としての使命です。
 
新しく造られたキリスト者は、神との新しい関係、つまり、神と和解できた人で、神様はその人に、イエス様こそ唯一まことの救い主であることを伝える務めを委ねて下さいます。

 ローマ人への手紙によれば、人は神に対して「かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げ」(ローマ2:5)、神の「敵であった私たち」(ローマ5・10)を、神は罪過の責任を私たち人間に負わせることをせず、「御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのこと」(ローマ5:10)キリストの復活によって、私達は日々罪から救われているのです。
ローマ2:5
2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

ローマ5:10
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

 しかも、神はキリストによって、神との和解に与った私達に、神と敵対している者たちに和解をもたらす「和解の務め、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(15:18,19節)。
 それゆえに神によって新しくされたキリスト者は、和解の福音を委ねられた「キリストの使節」(5・20)、つまり、キリストに代わって、人々に神の和解を受け入れるように語る使者として、深く自覚し、和解の福音を携えて宣教の業に励みなさい。それがキリスト者の使命ですよ、とパウロは私達に語るのです。
Ⅱコリント5:18-20
5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

 現実を見ると、失望し、落胆し、「そう言われても、私には出来ない」としり込みするかもしれません。その時忘れてはならないことは、イエス様が「あなたはわたしにどうしてほしいのか」と尋ねておられる。イエスは、すべてのことをご存知ですが、あなたの人生であり、その人生は、あなた自身の問題であり、責任として受け止めることを意味しています。そして、私達がするのではなく、私達を通して神がなさるのです。私たちには、そのような力はありませんが、私達には助け主、聖霊様がおられます。自分で自分の心を造り変えることはできません。しかし、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(15:17)。イエス様を救い主と信じて、神様とのいのちの交わりを持つならば、その人は新しく造られた者となるのです。天地を造られたまことの神様だけが、イエス様による新しい創造の御業を、今も私たちの内になすことができる、ただ一人のお方なのです。

 私達もイエス様によって新しく造り変えて頂いて、新しい命に生きる者としてふさわしく、キリストの愛に応えて和解の福音を宜べ伝えると共に、イエス様のために生きる者とさせて頂きましょう。

2007年11月18日 日曜日

イサクの神からの3つの祝福

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分06秒

創世記26章12-29節
 
アブラハムは175才で死に(25:7)、神の祝福の約束は息子イサクに受け継がれますが(創世記17・19)、イサクの生涯を学ぶ時、確かに主の祝福が豊かに注がれたことが分かります。今日は、イサクの祝福を、4つの面から考えてみましょう。
創世記25:7
25:7 以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。

創世記17:19
17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

第一は、財産が増し加わり、物質的な祝福を得たことです。
 「国にまたききんがあった」ので(26:1)、イサクは、エジプトに移住しようとしましたが、神が「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」(26:2)と言うことで、ペリシテ人の地、ゲラルに住み、飢饉の年であったにもかかわらず、神様は、み言葉に従順に従ったイサクに、2つの面で祝福されました。
創世記26:1
26:1 さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。

1、農作物における祝福です。飢饉の中で、「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た」(26:12)ことは、普通考えられないことで、まさに神様の祝福の結果でした。「見た」ということは、種を蒔いてしばらくしてやって来て見ると、百倍の実を実らせていることを発見したということです。つまり、イサクの側の何の功績にもよらず、全く主の恵みによる収穫だったということです。それは、私達にとって十字架と復活は神の恵みであり、他の人が行き詰っている時にも、神様を信頼する者は行き詰ることがないということです。
創世記26:12
26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。

2、牧畜における祝福です。イサクは畑の作物だけでなく、「ますます栄えて、非常に裕福」(26:13)になり、「羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようにな」(26:14)りました。
創世記26:13,14
26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。

 神様のみ言葉に従う時、物質も豊かに与えられるのは、聖書の示す大原則で、それは永遠に変わりません。み言葉に従って勤勉に働き、質素な生活をするならば、必要な物はすべて主が豊かに与えて下さいます(マタイ6・33)。
マタイ6・33
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

第二は、3つの試練が祝福の鍵です(26:14―16)。
1つ目は、人間の本質で、祝福に対するねたみです。イサクの周囲のペリシテ人はイサクから、その祝福の理由を聞いて、その信仰に倣(なら)うのではなくねたんだのです(26:14)。
創世記26:14-16
26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
26:16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」

2つ目は、ペリシテ人たちはねたみから、アブラハムのしもべたちが掘ったすべての井戸に土でふさぐという妨害をします。井戸は畑や、牧畜のためにも必要な水の供給源であるのに、彼らは卑劣な手段をもって、イサクに与えられた祝福をとどめようとしたのです(26:15)。

3つ目は、「われわれのところから出て行ってくれ」と言われて、イサクは、その場から追放されました(26:16)。

第三は、イサクの人格的祝福です(26:18-21)
1、信仰です。祝福されていた地を追放されたイサクはゲラルの谷間に住み、そこで、父アブラハムの時代に掘られ、その後ペリシテ人によってふさがれてしまった井戸を再び掘り起します。このことは、イサクの信仰による不屈の忍耐を示しています(26:18)。
創世記26:18-22
26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」

 アブラハムが受けた祝福の泉を、新たに掘り直しています。もし井戸がふさがれていなければ、イサクは何の苦もなく、その祝福にあずかっていたでしょう。しかし、イサクは自分自身で労苦して祝福の泉を掘り直す必要があったのです。イサクはその井戸に、父アブラハムが付けたのと同じ名を付けます。ここにイサクの信仰と謙遜を見ると共に、彼はアブラハムに与えられた神様の祝福を受け継いだのです。

続いて、イサクのしもべたちはまた新しい井戸を見付けます(26:19)。父の祝福の泉を掘り直した後に、イサクはそれに加えて新しい祝福の泉を見出しました。ここに信仰の継承者の姿があります。私たちは時として、先輩のしたことを否定して、新しいことをしようとします。そのことによって自分たちの独自性を主張しようとするのです。ここには謙遜さが欠けています。私達のなすべきことは、私たちの先輩が見出したものを継承し、それを自分自身のものとすることです。そしてその土台の上に立って、更に新しい主の恵みを求めるべきです。

2、忍耐と寛容です(26:20,21)。ゲラルの羊飼いたちは、イサクの井戸を「この水はわれわれのものだ。」(26:20)と言って、イサクの羊飼いたちと争ったので、イサクのしもべたちは、そこから移ってもう一つの井戸を掘りましたが、それについても争いがあったので、イサクはそこから移ってほかの井戸を掘ります。イサクは争いを望まず、次々に新しい神様の恵みを掘り出して行ったのです(26:21)。これこそ忍耐と寛容の姿であり、柔和のもとです。その結果、争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」と言って(22)、主に信頼する者に、神様は平安と勝利と祝福を与えて下さることを告白している。
神の祝福は、単なる物質的な祝福よりも、人格的な祝福の方がもっと重要です。特に柔和という品性は、キリストご自身も持っていたし(マタイ11:29)、御霊の実の一つでもあります(ガラテヤ5・23)。柔和に生きる人は、争いに満ちた現代社会で、非常に大切な意義を持ち、争いが起こるのを防ぎ、周囲に平和をもたらす。まさに祝福の基となるのです。
マタイ11:29
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

ガラテヤ5・23
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

第四は、信仰が深められた霊的祝福です。
 イサクは、飢饉もおさまったので、ゲラルからペエルシバに帰ります(26:23)。そこで主は再び彼に現れて、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。」(26:24)と仰せられましたが、「あなたとともにいる」という言葉は、イサクがゲラルに行った時に、主が約束されていたことですが(26:3)、これは霊的祝福と言えましょう。
創世記26:23,24
26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
26:24 主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

創世記26:3
26:3 あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。

 物質的祝福も、人格的祝福もすばらしいですが、霊的祝福こそ全ての祝福の源です。神様が共におられたからこそ、アブラハムもイサクも、主を信頼し続けることができたのです。だからイサクは、父と全く同じように、「そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。」(26:25)のです。
26:25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。

 イサクの生涯は、父アブラハムと比べるなら、柔和な人で、親族から別れることも、戦争に巻き込まれることもありませんでしたが、父の信仰をしっかりと受け継ぎ、ゆるぎない信仰者として神様と共に歩みつつ、何度も人々から嫌がらせやいじわるを受けても、争わず、神様は私の全てを知っておられ、必要も満たして下さると信じ、黙々と神様に従うことができたのです。
 
そして、様々な出来事を通して、信仰が深められていったことは確かです。私達も、神様にお会いする日まで、様々な試練を通して、信仰を深め、整え、花嫁のみ姿へと変えられる日々の歩みをさせて頂くと共に、信仰を継承させて頂きたいものです。それこそが豊かな祝福なのですから。

2007年11月17日 土曜日

2007年11月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 14時58分38秒

自分の人生は自分で決めることはできません。なのに、日本の自殺者は3万人と言われています。しかし、すべての人間はやがて死にます。死ぬために今を生きているとも言えます。
あなたの人生の終着点はどこですか。エルマ・ボンベックという人は「人生の最期になって神の前に立つ時、ひとかけの才能も残っておらず、こう言えるといいのですが。『あなたから頂いたものは、すべて使い果たしました』」と言いましたが、そう言えるような、悔いのない生き方ができたらいいですね。
「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」
(新約聖書コロサイ人への手紙3章24節)

2007年11月11日 日曜日

思い煩いからの解放

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分12秒

マタイの福音書6章25-33節
 
 キリスト者の生涯は、将来のことは何もかも神にまかせよということではありません。計画を立て、よく考え、配慮し、心配りをし、勤勉に働くことは大切です。今日は思い煩いについて学びましょう。

第一は、思い煩いとは何かです。
ここでいう「心配」とは、くよくよと思い煩うことです。思い煩う私達にイエス様は「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(マタイ6:25)と語られるほどに、天の父なる神様が私達のことを最も心配しておられます。なぜなら、私達を造られ、イエス様を十字架にかけるほどに愛しておられるからです。
マタイ6:25
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

第二は、キリスト者でも、毎日の生活で不安な材料がいくらでもありますから、思い煩います。しかしイエス様は、思い煩う必要はない理由を3つの例をあげて説明しています。
1、「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(6:26)と。
 
神様は、奇跡的手段に訴えることなく、自然の営みを通して、鳥を養っておられる。まして、神のかたちに造られた人間は鳥よりも大切な存在です。特にキリスト者は、罪のうちに、神様に背いていたが、イエスの十字架の血によって、罪赦され、悔い改めて、神の子として頂いた者です。鳥に対し良くして下さる神が、私達をどうして見捨てるでしょうか。そのようなことはありません。私達を憐れみ配慮していて下さる天の神様を覚える時、私達は思い煩いから解放されます。

2、「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、」(6:28-30)と。「ソロモンの栄華さえ」、花の完壁な美しさの前に色あせてしまいます。寿命の短い花、しかも燃料として炉に投げ込まれるほかない野の花でも、神はそれほど美しく装われます。この事実を考えると、神のかたちに造られた私達に対しご配慮下さらないはずはないことがわかります。

3、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(6:27)と。
 私たちのいのちは、神の御手のうちにあり、自分でそれを延ばすことはできません。自分の力で左右できないことを心配するのは、愚かでむだなことであり、心配しても、問題は解決できないということです。
 これらから、神様は私達に衣食よりも、もっと大切な「いのち」そのものを与えて下さったお方、その神様は、当然私達の命を支えるのに必要なものを与えて養って下さり、「よくしてくださらないわけがありましょうか」(6:30)。
マタイ6:27
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

マタイ6:30
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

思い煩うことは結局信仰の問題となります。私達の理性では、「神様は全能であるから、どんなことが起こっても大丈夫だ」とわかっていますが、いざ嵐に会うと恐ろしくなり、不安に押しつぶされてしまいます。私たちの感情は理性に従ってくれません。それが「信仰の薄い人たち。」(6:30)という意味です。ですから、野のゆりを見、空の鳥を眺めては、神様の約束を絶えず思い起こすことが大切です。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:7)。

第三は、思い煩いからの解決法として、2つあげましょう。
1、「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(6:31,32)。

 思い煩いが問題となるのは、万物を創造し、今も支配しておられる天の父なる神様を知らない人々にとっては、毎日の出来事は偶然であり、人生に価値や意味を見出すことは困難でしょう。そして「できるだけおいしいものを食べ、きれいなものを着、おもしろおかしく暮らそう」とします。そのために他の人と比べてあせったり、思い煩ったりもします。

 しかし、キリスト者は、自分が神の御手のうちにあることと、私達のすべてをご存じで、最善の配慮をして下さる神様であることを信じています。経済的な困難に陥った時や、私達の動揺しやすい心の隅々まで知り尽くしておられる神様は、私達の重荷を共に負って下さり、この世のすべての必要を知っておられますから、思い煩わなくてよいのです。

2、キリスト者にとっても、心の中にある思い煩いは、なかなか追い出,せません。追い出そうとすればするほどかえってとらわれます。唯一の解決は、「あなたの顔を天に向け、心を問題や困難にではなく、神ご自身に向けなさい」と主は命じられます。

神様は、「あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知」(6:8)り、与えて下さるお方ですから、心配するよりも、先ず神を信じることが大切です。「神の国とその義」とは、私達が神に信頼し、神の支配に服従した生活をすることであり、信仰により、神様との正しい関係において義とされることです。心配に対する最善の解決策は、神を信頼しつつ、「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)ることです。それによって、分裂し、混乱した心を、全面的に神を信頼するなら、神によって統一され、混乱した心は静まり、平安が回復します。心配は、無駄なエネルギーを消耗させますが、信仰は私達の全エネルギーを神に集中させ、神の目標に向かって働くようにされます。そうすれば、神は必要をすべて与えて下さいます。心配して右往左往するのではなく、神を信じてなすべきことをしたいものです。ただし、自分の願いがなることではなく、神のご計画のなることを求め、自分が本当に必要としているものと一致するなら、備えられていきます。
マタイ6:8
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
マタイマタイ6:33
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

心配のほとんどは未来に関するものです。しかし、未来は、神の支配の中にあるのですから、くよくよ心配しても、問題は解決しません。未来のことを心配することよりも、現在のことに全力を尽くして事を行うなら、「労苦はその日その日に、十分あります。」(6:34)。そして、神様との関係、神ご自身を、第一に求めましょう。そうするなら、思い煩いの入り込む余地はなくなります。そのような歩みさせて頂きましょう。
マタイ6:34
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

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