2007年12月30日 日曜日

神に向かって感謝をささげよう

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分31秒

詩篇100篇1-5節

 今年最後の礼拝となりました。この一年も、いろいろなことがありましたが、まず神様に守られたことを感謝しましょう。今日は詩篇100篇を通して、私達が喜んで神様を礼拝し、感謝し、賛美をささげる理由について学びましょう。

第一は、喜びをもって御前に来たれです。
 詩篇はまず、「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。」(100:1)と呼びかけていますが、その呼びかけの対象は「全地」とありますから、イスラエルという枠を超えた全世界の全ての被造物が、主なる神を賛美するようにということです。
 
 2節で、「喜びをもって主に仕えよ」「喜び歌いつつ御前に来たれ。」と語っていますが、このみことばによって、私達が何に仕え、何をすべきかを示しています。それは「あなたは何のために生きているか」と言うことにも通じます。私達は、自分のために生きるのではなく、喜びを持って、神を礼拝することが、本来あるべき人間の姿です。つまり、神を礼拝するとは、賛美をもって主の御前に行き、威光と尊厳を持って仕える。これこそが真の礼拝といえましょう。
詩篇100:1,2
100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。

第二は、神様がどういうお方かを知る知識をもって御前に来たれです。
 私達が礼拝者として心がけたいことは、「知れ。主こそ神」(100:3)とあるように、神をただ単に知識として知っているだけでなく、深く人格的な交わりによって、父なる神がどういうお方かを深く知り、神を認めて確信することです。3節では神について知るべき三つの事柄が述べられています。
① 造り主なる神です。
 「主が、私たちを造られた。私たちは主のもの」とありますように、神様は、永遠の初めから永遠の終わりまで存在される唯一人のお方です。神様は天地万物を創造され、今もそれを守り、治めておられるお方です。その中でも、私達人間を神様と交わる特別な存在者として造って下さり、すべてを最善にして下さるお方ですから、私達は心から神を畏れ、尊んで、主を礼拝することです(95・6)。
詩篇100:3
100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

詩篇95:5,6
95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。
95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。

② 王なる神です。
 「私たちは主のもの、主の民」とありますように、神は全てにまさって王なるお方であり、私達はその民です(95・3)。それ故に、私達は神の民としてふさわしく、神の公正な裁きに服し、心からの信頼と忠誠をもって仕えなければなりません。
詩篇95・3
95:3 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

③ 牧者なる神です。
 「私たちは・・その牧場の羊である」とありますように、神様は、羊飼いがその羊の世話をするように(23:1)、私達に必要な物を与え、体も心も養い、いつも危険なことから守って下さるお方ですから、神様によって造られた私たちは、硬く神を信頼し、心から喜んで神様を礼拝し、感謝し、神をほめたたえることです。
詩篇23:1
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

第三は、感謝をもって御前に来たれです。なぜなら、主のいつくしみ・恵み・真実への応答だからです。
 イスラエル民族は、真の神様の存在を知らせるために特別に選ばれた神の民でした。けれども、偶像を神として拝み、頼り、まことの神に従いませんでした。神様はそのようなイスラエルの民をも見捨てず、民が心から悔い改めて神様に立ち帰るならば、その罪を赦し、愛をもってどこまでも導かれました。それは、アブラハムやモーセ、ダビデなどの先祖たちと結んだ約束のゆえでした。

また、神様は先祖たちに救い主を送ることをも約束されました。その約束のとおりイエス様が来られ、イスラエルの民のように神様に逆らい、神のみ心を痛めることしかできない、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかって下さいました。滅びても当然の私たちが、イエス様の十字架を信じることによって罪を赦され、神様に近づいて、いつも交わり、礼拝する者とさせて頂いたのです。これは神の恵みであり、約束をどこまでも守り続けて下さる神のご真実のゆえです。その神様の変わらないご愛と恵みと真実とを覚える時、私たちの心とくちびるから感謝と賛美とが溢れ出てくるのも当然でしょう。

ですから、5節には、礼拝者が感謝を献げるべき理由が示されています。それは「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」と。私達は、この神の限りなき愛に応答し、心からの感謝の供え物を携えて、主の宮に集う者とされているのです。

慈しみ深い神は、ご自身の民が感謝の供え物を携えて礼拝をするように招いておられます。この一年を振り返り、神様の恵みの数々を思い返しつつ、迎える新しい年も、まことの神様を信じて礼拝し、感謝と賛美を献げる者とさせて頂きましょう。

2007年12月23日 日曜日

神の愛のあらわれ

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分39秒

ヨハネの福音書3章16-21節

クリスマスおめでとうございます。プレゼントを、もう頂きましたか。実はクリスマスは、神様が私たちにこの世界中で一番すばらしい、びっくりするような宝物をプレゼントして下さった日なのですが、それをヨハネの福音書3:16のみことばが語っています。今日は、神の愛のあらわれについて考えてみましょう。
ヨハネ3:16
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

第一は、ひとり子を与えるほどの神の愛の事実です。
神とは、どのようなお方なのでしょうか。私たちが信じている神は、創世記1章1節に「初めに、神が天と地を創造した」と記されていますように、全世界を創造され、私達人間をもお造りになられた唯一なるお方ですが、同時にキリストの父であり、キリストは神の特別なひとり子です。
ヨハネ1・14

 その「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。「世」とは、頭脳明晰で、観光、優秀な、世的に言うなら、成功した、有能な人たちも、誇るべきものもないすべても人々のことで、特に、神様によって造られながら、神様を無視し、神様に逆らい、神様を信じないで、自己中心な生き方をしている世界のことです。そしてそれは、私達一人一人のことを指しています。神様は、私達がどんなに神様に背を向けて自分勝手に生きていても、神様のことなど全く考えないで、悪いことばかりするような罪の中に生活していても、私達のことを忘れることなく、見捨てることなく、変わらない愛で愛していて下さるのです。そして私達が、そのままの姿で神様のもとに帰ってくるのを、ずっと忍耐して待っていて下さるのです。

神がひとり子を「お与えになった」という行為を、神のお立場から考えるならば、それは神様にとって最も大切なものを「失った」「手放された」ということです。神はご自身にとってかけがえのないひとり子を、私達のために失われたのです。それは神にとって言い尽くしがたい痛みです。一般的に、親にとって自分の子どもを失うことほど辛(つら)いことはありません。自分の命に代えてでも、わが子だけは救いたいと思うのが親の情です。しかし神は、私達のために、ご自身のふところにいるひとり子を与え、失い、手放して下さったのです。これほど神の深い愛が私達に注がれているのです。あなたが、救い主イエス・キリストを信じる、信じないに関わりなく、たとえ、心かたくなにし、反抗していたとしても、親がわが子を信頼して待ち望むように、神は、あなたが立ち帰るのを今か今かと待ち望んでいるのです。なぜなら、親が子を信じてあげないで、誰が信じてあげられましょう。神はあなたを造られ、ひとり子を与えるほどにあなたを愛しておられるのです。
神様の忍耐は2000年です。そして、この世が終わるまで「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)と捜し、尋ね求め、みこえをかけ続けています。
創世記3:9
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

第二は、神様の私たちに対する愛はどれほど大きなものなのでしょう。その愛はどこに表されているのでしょうか。ひとり子を信じる者を救う神の愛の大きさです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」とあります。ひとり子とは、父なる神様にとって、ただ一人で他に代わりのない、愛する子イエス様のことです。そのイエス様が人間となって、この世界に来て下さったのがクリスマスです。罪のないイエス様が、人間の罪を負って十字架にかかり、私たちの代わりに神様のさばきを受けるために、この世に来て下さったのです。神様は、一番大切なご自分の宝物であるひとり子イエス様を、私たちの罪の身代わりとして与えて下さったのです。与えるとは、手放すという意味です。
イエス様の十字架に、神様の私達に対する愛がどれほど大きなものであるかが表されています。

第三は、神様はどうして私達のために、それほどまでに大きな愛の犠牲を払って下さったのでしょうか。神の愛の目的です。
 「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためで」す。また「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:10)とも聖書に記されています。「なだめの供え物」とは、神様の怒りを静めるために、イエス様の命がささげられた、つまり、十字架がなだめの供え物なのです。それが神様の具体的な愛のあらわれなのです。

私達が神の愛を知り、自分の罪を認めて、イエス様の十字架が自分の罪のためであったと信じるならば、その人は刑罰にあうことがなく、神様との交わりの中に生きる永遠の命を頂くことができます。そのために、ひとり子であられたイエス様の命を犠牲にされたのです。けれども、もし私たちが自分の罪が明らかにされることを恐れて、光であるイエス様のもとに来ることなく、イエス様を信じなければ、その人は、罪からの救いと永遠の命を得ることができず、さばきを受けなければなりませんが、神様は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改め」(2ペテロ3:9)て、永遠の命を得てほしい。そのために救いの道をイエス様を通して備えられたのですが、イエス様を救い主として信じるか信じないかは、私たちにとって救いか滅びかを決定してしまうことなのです。なぜなら、神様は人間に自由意志を与えておられるからです。
2ペテロ3:9
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

このクリスマス、イエス様のご降誕は、神様の最大の愛のプレゼントです。御子を信じる全ての者が永遠の命を得るという賜物です。私達もひとり子である救い主イエス様を心で信じ、永遠の命を頂きましよう。

2007年12月16日 日曜日

ヨセフの信仰に学ぶ

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分05秒

マタイの福音書1章18-25節
              
 アドベント第三週を迎えました。先週は、イエス様の母マリヤのことを学びました。今日は、イエス様の父ヨセフについて学びましょう。

第一は、ヨセフの苦悩です。
 イエスの誕生に際して、信仰の決断を迫られたのはマリヤだけでなく、いいなづけのヨセフも、信仰のチャレンジを受けますが、それは神の恵みに応答する信仰者の栄誉でもあったのです。

マタイによる福音書は「イエス・キリストの誕生の次第」をヨセフの側の視点から描いています。「イエス」の母マリヤは、ヨセフと結婚生活をする前に、「聖霊によって身重になったことがわかり」(18)ます。ヨセフは、主のみ使いの声を聞くまでは、マリヤの純潔を信じていましたので、驚いたことでしょう。婚約者ですから法的には夫の身であったヨセフは、「正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決め」(1:19)ます。
マタイ1:18,19
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 ここに言う「正しい人」(19)とは、律法に忠実な者ですが、同時にヨセフはあわれみ深い資質を持ち、神を畏れ、神のみ言葉を守り、行う人でしたので、当時ユダヤ人の法律によれば、姦淫した女は、石で打ち殺されなければなりませんでしたが、ヨセフはマリヤを愛していましたので、「彼女をさらし者にはしたくなかったので」、当時、婚約を解消する方法は、当事者が死亡するか、あるいは、離婚するかでしたので、ヨセフは離縁状を与えて、「内密に去らせようと決め」たのです。それは、ヨセフにとってはひそかに離婚することが、マリヤを守り、律法の手続きを全うする選択でもあったのです。いずれにしても、「正しい人」(18)ヨセフがこの決心に至るまでどれほど苦悩したことでしょう。

第二は、御使いの告知です。
 ヨセフがマリヤとの問題を「思い巡らしていたとき」(20)、主の使いが夢に現れ、ヨセフがダビデの子孫であることの自覚を促す「ダビデの子ヨセフ」(20)の呼びかけをもって、マリヤの身に起こった真実とヨセフがなすべきことを告げます。

 ここで神が御使いを通してヨセフに告げたことは主に二つです。
その1、「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(20)。また「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(21)と命じられます。
 神は、胎内に宿っている子が聖霊によるものであり、また神ご自身の民を罪から救って下さる救い主であることを明らかにされたのです。

その2、神はヨセフに、マリヤの身に起こったことが、旧約の預言の成就であることを示します。その預言とは、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(23)と言う、はるか750年前のイザヤのメシヤ預言(イザヤ7・14)が成就したことを明らかにされたのです。
マタイ1:20-23
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

イザヤ7・14
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

第三に、私達の神は、インマヌエルの神です。
 インマヌエルとは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。大好きな神様といつも一緒にいるためには、神様と私たちとの間を邪魔している罪が取り除かれなければなりません。そのためにイエス様はこの世界に来て下さり、罪を取り除く救い主として十字架にかかって下さったのです。そのイエス様を救い主として信じる人の内に、イエス様はインマヌエルの神、いつも一緒にいて下さる神で、それは、少しの間だけ一緒にいて下さるというのではなく、たとえ、信じられない時でも、離れていると思えるような時でも、神様は、あなたを愛し、見離さず、見捨てず、この世の終わりまで、いいえ、その後に続く天国までも、ずっとずっと私たちと一緒にいて下さいます。イエス様は決してさようならを言われない御方なのです。

第四は、ヨセフの信仰と従順です。
 ヨセフは、神の使いから伝えられた時、心の中でどのように受けとめたでしょう。疑えば、いくらでも疑うことも、自分の知らないうちに、マリヤが不貞を働いたのだと思うことも、それに、神の使いが語ったのは夢の中でしたから、悪い夢を見たのだと思うこともできたでしょう。いずれにしても、人間の常識では理解・納得できないことでした。ヨセフは、神からのメッセージを信じて従がうか、それとも、それを拒否して内密のうちにマリヤと離縁するかの決断に迫られていたのです。詳しいことはわかりませんが、ただ、「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、」(1:24)、「そして、その子どもの名をイエスとつけた。」(1:25)と語っていますので、神からのメッセージを信じて受け入れたことを、このみことばが証明しています。
マタイ1:24,25
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

そこには、主の使いの啓示を受ける前に、思い悩んだヨセフが、マリヤを妻として迎えることが自分の人生にどのような影響を及ぼすかを十分に理解した上で、信仰と従順と勇気ある決断をしたかが、この言葉の中に込められていることがよくわかります。 

 一旦、神の御心を知り、神からのご命令を頂き、自分自身が神のご計画を担うものであることを悟ったからには、退くことは不可能です。ヨセフは信仰によって、圧倒的な神のご命令に従ったように、私達も、神のご計画を担う者として、インマヌエルの神を心に迎え、信仰をもって、服従の道を選び、神ご自身の大いなる恵みの御業を全うできるように、歩ませて頂きましょう。

2007年12月15日 土曜日

2007年12月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 20時50分27秒

おおらかな人、人を潤す者になれたら、どんな人生がやって来るのでしょうか。肥沃な潤った人生になる、と聖書は言います。すてきな人生が約束されています。でも私達はなかなか、おおらかに人を潤す人になれないのです。なぜでしょうか。関係が近ければ近いほど、自分を横に置き、自分のこだわりを捨てることができないからです。自分の考え、やり方、見栄、プライドなどが邪魔をして、かたくなになるのです。主イエスは「目分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9・23)と言われました。年末です。大きなゴミ箱を用意して、いらないものを捨てましょう。自我も砕いて捨てましょう。おおらかになって、まわりを潤せるようになります。来年も神様の祝福がありますようにお祈り申し上げます。
「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(旧約聖書箴言11章25節)

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