2008年1月27日 日曜日

苦しみを乗り越える勝利の信仰

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分51秒

創世記39章1-23節

人生には、誰にも分かってもらえない気持ちやつらい出来事がありますが、ヨセフは長い年月苦しみに耐えた人物です。苦しみを乗り越えたヨセフの勝利の信仰を学びましょう。

第一は、ねたまれたヨセフです。
 ヨセフは、ヤコブにとっては、11番目の年寄り子で、母ラケルとの初めての子どもであったため(30:22⊶24)、ヤコブはヨセフを特別に愛し、ヨセフには兄たちよりも良い服も与えました。今で言うなら、溺愛(37:4)です。それゆえ、兄たちは、ヤコブがヨセフをえこひいきしていると感じねたみ、ヨセフも父へ兄たちのうわさを告げ口したゆえにねたまれました。
創世記30:22-24、
30:22 神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
30:23 彼女はみごもって男の子を産んだ。そして「神は私の汚名を取り去ってくださった。」と言って、
30:24 その子をヨセフと名づけ、「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように。」と言った。

創世記37:4
37:4 彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。

またある時は、ヨセフが見たという夢の中で、両親と兄弟たち全員が彼を拝んでいることを示しているのを聞いて、腹を立て、ついに、ヨセフを殺そうとします(37:18,19)が、ルペンの言葉により、穴に投げ込まれます(37:21,22)。しかし、ユダの提案で、ヨセフをイシュマエル人に銀20枚で売り(37:26-28)、ヤコブには野獣にかみ殺されたように見せかけました(37:31-33)。そのイシュマエル人は、ヨセフをエジプトに連れて行き、エジプトの侍従長ポティファルにヨセフを売ります(37:36,39:1)。
創世記37:18,19,21,22,26-28,31-33
37:18 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。
37:19 彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。
37:21 しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。
37:22 ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。
37:26 すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。
37:27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
37:28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。
37:31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。
37:32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。」と言った。
37:33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」

第二は、神の恵みと祝福を持ち運ぶ者です。
 ヨセフの運命は苦難に満ちていました。彼は兄たちに売られ、エジプトの侍従長ポティファルの下で奴隷となりますが(1)、「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだね、・・・自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった」(39:3-6)ほどでした。
創世記39:3-6
39:3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。
39:5 主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。
39:6 彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。

 このように主人がヨセフを用いる様子が詳しく描かれていますが、それは、ヨセフが神様に特別な配慮をもって守られ、祝福されていることの故でした。そしてヨセフに与えられている祝福はヨセフだけでなく、ヨセフの周囲にも及んでいったので、実にヨセフは神の恵みと祝福を持ち運ぶ者と言えましょう。

第三は、ヨセフの試練です。
 異国の地で奴隷となりつつも、神の祝福の内に用いられるヨセフでしたが、なお試練がありました。それはポティファルの妻の誘惑です。
 ヨセフは「体格も良く、美男子」(39:6)だったので、「主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」(39:7)と、毎日のように言い寄りますが(39:10)、ヨセフはこれを拒みます。ヨセフは自分を信任する主人を裏切って、主人にとって大切な妻と寝ることが出来なかった。そして何より、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょう。」(39:9)と、主なる神の前に決して犯してはならない罪であることをわきまえていました。
創世記39:7-10
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。
39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。

 ヨセフは神の前に罪を犯すことが出来なかった。ここにヨセフの霊的な特質が現れています。ヨセフは父ヤコブの寵愛を受けた坊ちゃんではありましたが、単にそれだけでなく、神様がヨセフと共におられ、ヨセフを守り、祝福されたのは、ヤコブの家族を救うという神の御計画の故に他なりませんが、ヨセフ自身の信仰による所もまた大きい。神の前に真実をもって歩むヨセフの信仰は、ヨセフの祝福の源泉となったのです。

 そのような中、ポティファルの妻の誘惑は、とうとうヨセフに悲劇的な結果をもたらします。ある日、「彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。」(39:11)時に、「彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」(39:12)としつこく言い寄りました。ヨセフが逃げたため、彼の上着をつかみ取ってしまいました。そして、その家の者どもを呼び寄せ、また、帰って来たポティファルにも「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」(3917,18)と訴えますと、ポティファルはカンカンに怒り、ただちにヨセフを引き立てて、牢屋に入れてしまいました(39:20)。
 これはぬれぎぬですが、この世ではよくある出来事で、特に神の前に真実に歩む者にとって、わかってもらえず、侮辱(ぶじょく)され、耐え難い屈辱であり、義の苦難と言えます。私達キリスト者は、特に性の誘惑と、このことをヨセフから謙虚に学ぶことです。私達は、人との関係も大切ですが、先ず神との関係を真実をもって歩む勇気と確信が重要です。なぜなら、人は誘惑に弱いからです。自分を知り、弱さを認め、知ることです。
創世記39:11,12,20
39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。
39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
39:20 ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

第四は、神様が共にいるゆえの、獄屋での祝福です。
ヨセフは、先には兄達に妬(にく)まれ、売られて一人エジプトに連れて来られ、その上、今度は自分が悪くないのに、うそをついたポティファルの奥さんのために、牢屋に入れられてしまったのです。

罪を拒んだために獄に投げ置かれたヨセフでしたが、神はこのヨセフを決して見捨てられませんでした。「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。」(39:21,22)のです。

 このようにヨセフの身は、奴隷から囚人へと悪くなったようですが、神の前に信仰をもって歩むヨセフに、神は、行く所、行く所で伴って下さり、ヨセフのなす事をみな栄えさせて下さり、恵みを十分に注き続けて下さいました(20~23)。しかも、この獄屋で過ごすことが、将来ヨセフがエジプトの宰相(総理大臣・首相の意味)となるためのきっかけとなることを誰が想像できましょう。神様のなされる御業は、人の思いをはるかに超えて、恵みと祝福に満ちているのです。
創世記39:23
39:23 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。

 イエス様も、ののしられ、あざけられても、黙って全てのことを神様にお任せになりました。しかも、ご自分には罪がなかったにもかかわらず、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死んで下さいました。私達も、意地悪をされたり、自分が悪くないのに悪口を言われたりすることがあるかもしれません。しかし、ヨセフのように、誘惑による罪を退け、共におられる神様に信頼し、自分で仕返しをせず、神様にお任せしてゆく勝利の信仰に倣いましょう。

2008年1月23日 水曜日

日本語ドメイン「杏の里教会.jp」の公開

Filed under: 新着情報 — 管理人 @ 20時02分47秒

いつも、杏の里教会のウェブサイトをご覧くださり、ありがとうございます。
当サイトでは、一層、便利なように、日本語ドメインに対応いたしました。
ブラウザのアドレス欄に、「杏の里教会.jp」と入力していただくだけで、当サイトに移動することができます。
なお、アドレス入力は、「杏の里教会。jp」でも、。「杏の里教会。JP」でも認識できます。
この日本語ドメインは、MSIE7または、Firefox2で対応されております。MSIE6等のブラウザをお使いの方につきましては、
従来どおり、「anzunosato.net」でご指定ください。なお、携帯端末でも、一部のもので対応されているものがあります。
詳細は、日本語.jpのウエブサイトをご参照下さい。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

2008年1月20日 日曜日

ヤコブの信仰の転機

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分30秒

創世記32章1-32節
 ヤコブは、神の臨在を知り、新しく生まれ変わる体験をした後、ハランに行き、おじラバンの厳しい仕打ちの中で20年間働いて、多くの財産と妻と子供を得ます。その後、神は、約束通りカナンの地に連れ帰られるのですが、その直前に再び彼は、神と出会う体験をします。今日は、信仰の転機について考えてみましょう。

第一は、ヤコブの不安・恐れです。
ある日、神様はヤコブに故郷に帰るように命じられました。しかし、ヤコブは、故郷にいる兄エサウと再会することを恐れていました。なぜなら、20年前ヤコブがエサウの長子の特権や祝福を横取りしたために、エサウが自分を殺そうと考えていたことを覚えていたからです(27:41)。
 ヤコブは知恵を絞り、エサウの怒りをなだめるために、たくさんの牛や羊などの贈り物を用意します。ところが、ヤコブが遣わした使者は、エサウが400人を引き連れてやってくると報告しました。ヤコブは、エサウに仕返しされることを恐れ、早速自分の知恵をもって行動し、人々や家畜を二つの宿営に分けます。それは「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」(8)と考えたからです。
創世記27:41
27:41 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」

第二に、ヤコブの祈りです。
ヤコブはその夜のうちに、妻達と子供達を連れ、自分の持ち物と共にヤボクの渡しを渡らせますが、ヤコブ自身は一人だけ後(あと)に残ります。それは、自分ひとりだけが助かろうとしたからではなく、自分自身の不安と戦い、自分の霊的な状態に不満を感じて、ただ一人神と交わり、神からの解決を得たいと考えたからです。その前に、ヤコブ一人祈ります。
 人は、神によって深く取り扱われるために、ただ一人になる必要があるのです。そしてヤコブは5つの面で神に祈っています。
その1、彼は、「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。」(9)と、祈りをささげる対象を知っていました。

その2、彼は、「かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。」(9)と、自分が故郷に帰るのは、神の命令と約束によるのですと祈っています。

その3、彼は10節で、神が自分に与えて下さった恵みを思い起し、自分はその恵みに値しない者であることを認めています。
創世記32:10-12
32:10 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。
32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」

その4、彼は、11節エサウに対して抱いている恐れを素直に告白しています。そして最後12節で、再び主の約束を手にして主に訴えています。
 このように祈っていながら、ヤコブは更に作戦を練って、兄エサウへの贈物を選び、それを三つの群れに分けます。それは、自分より先に行く贈物によってエサウをなだめ、その後エサウに会えば、エサウは快く受け入れてくれるかもしれないと思ったからです。

 これらから、ヤコブの心の中には神への信仰と、人への恐れが存在し、自分の知恵と力、持物に頼る思いを捨て切れないばかりか、心の中にはまだ「自我」が王座を占めていたゆえに、彼は神に祈りつつも、神に完全にゆだねきれず、不安と恐れに勝利することができなかったのです。私達も、罪責感による恐れ、不安は、どんなに努力しても、どんなに戦っても、自分では勝つことが出来ないことに気づくことです。

第三は、ヤボクの渡しにおける格闘です。
一人になったヤコブは「ある人」、つまり神の使いと格闘します(参照ホセア12:3)。そこから5つのことを通して信仰の転機を学ぶことができます。
 その1、神との格闘でした。私たちには人との格闘や、自分の内部における格闘もありますが、ここでは、神と人との格闘です。実はこの神との格闘こそ、最も激しい、最も本質的な格闘であり、私たちが必ず経験しなければならないものなのです。
 その2、「ある人が・・・彼と格闘した」(32:24)と記されていますように、これは神によって始められた格闘でした。ヤコブが解決を求めようとしたのも事実ですが、それよりも、神御自身がヤコブの問題を解決しようとされたのであり、神がヤコブをきよめようとされたのです。私たちは、本質的に自己防御本能があり、できれば取り扱われることを避けたいと考えますが、神は愛するゆえに、民を中途半端を状態には放置なさらないで、品性を練られ、キリストの似姿にするために、試練を通らせられるのです。
創世記32:24
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 その3、「夜明けまで」(32:24)とありますように、この戦いは時間の長さにおいても、程度においても大変なもので、徹底的な格闘でした。
その人はヤコブの自我の力があまりにも強烈であり、彼が自我に固執しているのを見て取って、彼のもものつがいを打った。もものつがいは、人が足を使って歩くために大切な器官です。そこを打つということは、ヤコブの自我を打ち砕いたということです。ヤコブは自分の力ではこの自我を砕くことはできなかった。神のみが彼の自我を徹底的に砕くことがおできになるのです。ヤコブはそのような中で神の祝福なしに生きて行くことができない自分を発見したのです。

 その4、これは人を変えた格闘でした。その人がヤコブに名を聞いた時、彼は「ヤコブです」と答えましたが、これは彼の罪深い自我に満ちた性質、生れながらの彼の姿を表す名です。これに対してその人は「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」(28)と言われました。イスラエルとは「神は争われる」の意味ですが、これは「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」(32:28)というところから来ていますが、これはヤコブが神と戦って、彼の自我が神に勝利したという意味ではなく、むしろ、彼が砕かれることによって神が勝利し、神が勝利したことによって、ヤコブが霊的な勝利を得たということなのです。彼はもはや自分自身に頼まず、神に頼むことによって真の解決を得たのです。
この格闘によって、「ヤコブ」が「イスラエル」になったと言うことは、単なる名前が変わっただけでなく、彼自身の生き方が、根本的に変えられたのです。
創世記32:28
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

その5、これは祝福をもたらす格闘でした(32:29)。この戦いの後に、その人は彼を祝福しています。自我が徹底的に砕かれた時に与えられる祝福は、一時的なものではなく、永続的な祝福なのです。
創世記32:29
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。

 自我の塊のようだったヤコブが、神の恵みによって砕かれ、造り変えられて、ついに本来、神を見た者は生きることができないはずなのに(出33・20)、彼は「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」(32:30)と告白するほどに成長したのです。
私達も、自分で自分を変える力はありません。しかし、イエス様の十字架の血は、私たちの汚れた心をきよめ、この世の罪に勝たせ、聖霊に満たして、私たちを神の皇太子として下さるのです。
自分の力に寄り頼まず、自分の弱さを認め、ありのままの姿でイエス様のもとに近づくなら、神の方からも近づいて下さいますから、ただ、ひたすら神のみ顔を仰いで歩ませて頂きましょう。その時、私達は本当の勝利者となれるのです。
出エジプト33・20
33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

創世記32:30
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。

2008年1月15日 火曜日

2008年1月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 20時29分29秒

「子を持って知る親の恩」ということわざがあります。子どもが病気になってあわてて自動車で病院に運んだ時、自分が子供の頃、けがをした私を背負って病院に走った父親のぬくもりを思い起こします。親は子供が健やかで正しく生きるように願います。しかし、子供は親の思うように育ってはくれません。アウグステイヌスの母モニカは、息子の信仰のために祈り続けていましたが、息子は神への信仰から遠く離れ去っていました。悲しみの涙の中で祈り訴えるモニカに、司祭は「祈られている子は決して滅びない」と告げました。モニカの涙の祈りは歳月を経て、感謝の祈りに変えられました。愚かにみえた息子は回心し、謙遜な聖書の教師になり、モニカは祈りの中で不思議な逆転をみることができました。
「ソロモンの箴言 知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。」
(旧約聖書箴言10章1節)

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