2008年1月6日 日曜日

神の選びとヤコブの選び

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分34秒

創世記25章19-34節
             
 先ほど読んで頂きましたように、25章後半にはイサクの二人の息子たちの若い頃の出来事が記されています。ここには、神の祝福の約束が兄のエサウではなく弟のヤコブに受け継がれることが予告され、その約束が27章(27・27)で成就しますが、なぜそのようになったのか。その要因を何回かにわけて考えてみましょう。
創世記27・27
27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。

第一は、双子の兄弟にある神の選びです。
 イサクは40歳の時にリベカと結婚しますが、妻が不妊だったため、「主に祈願し」(25:21)、20年後に、彼女はみごもりますが、あまりにも胎内の動きが激しいので、「彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言って、主のみこころを求めます。すると主は彼女に「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(2522,23)と告げます。
創世記25:21,22,23
25:21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。
25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。
25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

 子どもが与えられるかどうかとか、産む、産まないということと、神の祝福が誰に与えられかは、人間が決めることではなく、神のみ手の中にあります。パウロは、そのことを明確にするために、「まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、 「兄は弟に仕える。」(ローマ9・11,12)と語っています。人間の小細工で神の祝福を得ようとすることは、全く無益なことで、神ご自身が、祝福すべき人を選ばれることを忘れてはなりません。

第二は、親の評価です。
 出産の時、「最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳」(創世記25: 25,26)でした。
親は、その外見から二人に名前をつけましたが、名は体を現すと言われますように、これらの名前は、彼らの将来を象徴的に示していることにも注目したいです。ですから、名前を注意してつけないと、その人の人生そのものに影響を与えると警告しています。
 
成長するにつれ、彼らの性格の違いがはっきりと表れてきます。エサウは野の人で狩りを好み、ヤコブは天幕にいて母の手伝いをするという対照的な二人について、「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。」(25:28)と記されているように、両親の評価は違っていましたが、親に高く評価された者に神の祝福が与えられるとは限らないことを、キリスト者の親は、心に留めておく必要があります。神の祝福は、神のみ手の中にあるのであって、人の評価によるのではないということです。

第三は、兄エサウの切望していたものです。
 ある日「ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。」(創世記25:29)これが二人の将来に影響を与える大事件に発展します。
「エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」。するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売」(創世記25:30-33)りました。

エサウにとっては、目の前の一杯の食べ物の誘惑が、神の祝福を受け継ぐことよりも重要だったゆえに、聖書は「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑した」(25:34)と記しています。
創世記25:34
25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

創世記25:29
25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
第四は、弟ヤコブの切望していたものとヤコブの選びです。
 対照的に、ヤコブは長子の権利を必死に求めていました。彼は、長子は他の兄弟の二倍の遺産を受け取れることを知っており、少しの時間差で弟になったことを残念に思っていたのでしょう。何とかこの特権を得たいと、日頃から機会をうかがっていたと思われます。そして後には、母親に促されたとはいえ、父親を欺いてまで、本来は長子に与えられるべき祝福を得ようとするのです。

 ヤコブは、物質的な意味で神様の祝福を必死に求め、兄や父をだましてまで得ましたが、それを手にしてもそのままでは祝福の基になることはできません。その後のさまざまな出来事を通して、神の取り扱いを受けることになります。これは何を意味しているのでしょう。

 それは神の選びは人の業によらず、召した方のみ心のままに行われるものだということを示すためでした。ヤコブは母の胎内の中にいる時から、神様のご計画のうちに「兄が弟に仕える」と母リベカに告げられ、神に選ばれた存在でした。押しのける者と名づけられ、成長したヤコブは、名前の通りの歩みをしました。神の選びの業は、ヤコブがエサウより善人だったからか。必死に求めたからか。努力したから神の祝福が与えられたのでしょうか。それもありますが、あくまでも、神の選びによる一方的な恵みの業によるものであることを示すために、ヤコブを選ばれ、ヤコブはやがてそれに気付きますが、私達もそれに気づき、今教会に導かれているのは、神様の一方的な選びと恵みの業によることを知り、神の恵みと愛を人々に伝えるために、日々信仰の歩みをさせて頂きましょう。

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