2008年1月20日 日曜日

ヤコブの信仰の転機

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分30秒

創世記32章1-32節
 ヤコブは、神の臨在を知り、新しく生まれ変わる体験をした後、ハランに行き、おじラバンの厳しい仕打ちの中で20年間働いて、多くの財産と妻と子供を得ます。その後、神は、約束通りカナンの地に連れ帰られるのですが、その直前に再び彼は、神と出会う体験をします。今日は、信仰の転機について考えてみましょう。

第一は、ヤコブの不安・恐れです。
ある日、神様はヤコブに故郷に帰るように命じられました。しかし、ヤコブは、故郷にいる兄エサウと再会することを恐れていました。なぜなら、20年前ヤコブがエサウの長子の特権や祝福を横取りしたために、エサウが自分を殺そうと考えていたことを覚えていたからです(27:41)。
 ヤコブは知恵を絞り、エサウの怒りをなだめるために、たくさんの牛や羊などの贈り物を用意します。ところが、ヤコブが遣わした使者は、エサウが400人を引き連れてやってくると報告しました。ヤコブは、エサウに仕返しされることを恐れ、早速自分の知恵をもって行動し、人々や家畜を二つの宿営に分けます。それは「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」(8)と考えたからです。
創世記27:41
27:41 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」

第二に、ヤコブの祈りです。
ヤコブはその夜のうちに、妻達と子供達を連れ、自分の持ち物と共にヤボクの渡しを渡らせますが、ヤコブ自身は一人だけ後(あと)に残ります。それは、自分ひとりだけが助かろうとしたからではなく、自分自身の不安と戦い、自分の霊的な状態に不満を感じて、ただ一人神と交わり、神からの解決を得たいと考えたからです。その前に、ヤコブ一人祈ります。
 人は、神によって深く取り扱われるために、ただ一人になる必要があるのです。そしてヤコブは5つの面で神に祈っています。
その1、彼は、「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。」(9)と、祈りをささげる対象を知っていました。

その2、彼は、「かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。」(9)と、自分が故郷に帰るのは、神の命令と約束によるのですと祈っています。

その3、彼は10節で、神が自分に与えて下さった恵みを思い起し、自分はその恵みに値しない者であることを認めています。
創世記32:10-12
32:10 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。
32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」

その4、彼は、11節エサウに対して抱いている恐れを素直に告白しています。そして最後12節で、再び主の約束を手にして主に訴えています。
 このように祈っていながら、ヤコブは更に作戦を練って、兄エサウへの贈物を選び、それを三つの群れに分けます。それは、自分より先に行く贈物によってエサウをなだめ、その後エサウに会えば、エサウは快く受け入れてくれるかもしれないと思ったからです。

 これらから、ヤコブの心の中には神への信仰と、人への恐れが存在し、自分の知恵と力、持物に頼る思いを捨て切れないばかりか、心の中にはまだ「自我」が王座を占めていたゆえに、彼は神に祈りつつも、神に完全にゆだねきれず、不安と恐れに勝利することができなかったのです。私達も、罪責感による恐れ、不安は、どんなに努力しても、どんなに戦っても、自分では勝つことが出来ないことに気づくことです。

第三は、ヤボクの渡しにおける格闘です。
一人になったヤコブは「ある人」、つまり神の使いと格闘します(参照ホセア12:3)。そこから5つのことを通して信仰の転機を学ぶことができます。
 その1、神との格闘でした。私たちには人との格闘や、自分の内部における格闘もありますが、ここでは、神と人との格闘です。実はこの神との格闘こそ、最も激しい、最も本質的な格闘であり、私たちが必ず経験しなければならないものなのです。
 その2、「ある人が・・・彼と格闘した」(32:24)と記されていますように、これは神によって始められた格闘でした。ヤコブが解決を求めようとしたのも事実ですが、それよりも、神御自身がヤコブの問題を解決しようとされたのであり、神がヤコブをきよめようとされたのです。私たちは、本質的に自己防御本能があり、できれば取り扱われることを避けたいと考えますが、神は愛するゆえに、民を中途半端を状態には放置なさらないで、品性を練られ、キリストの似姿にするために、試練を通らせられるのです。
創世記32:24
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 その3、「夜明けまで」(32:24)とありますように、この戦いは時間の長さにおいても、程度においても大変なもので、徹底的な格闘でした。
その人はヤコブの自我の力があまりにも強烈であり、彼が自我に固執しているのを見て取って、彼のもものつがいを打った。もものつがいは、人が足を使って歩くために大切な器官です。そこを打つということは、ヤコブの自我を打ち砕いたということです。ヤコブは自分の力ではこの自我を砕くことはできなかった。神のみが彼の自我を徹底的に砕くことがおできになるのです。ヤコブはそのような中で神の祝福なしに生きて行くことができない自分を発見したのです。

 その4、これは人を変えた格闘でした。その人がヤコブに名を聞いた時、彼は「ヤコブです」と答えましたが、これは彼の罪深い自我に満ちた性質、生れながらの彼の姿を表す名です。これに対してその人は「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」(28)と言われました。イスラエルとは「神は争われる」の意味ですが、これは「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」(32:28)というところから来ていますが、これはヤコブが神と戦って、彼の自我が神に勝利したという意味ではなく、むしろ、彼が砕かれることによって神が勝利し、神が勝利したことによって、ヤコブが霊的な勝利を得たということなのです。彼はもはや自分自身に頼まず、神に頼むことによって真の解決を得たのです。
この格闘によって、「ヤコブ」が「イスラエル」になったと言うことは、単なる名前が変わっただけでなく、彼自身の生き方が、根本的に変えられたのです。
創世記32:28
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

その5、これは祝福をもたらす格闘でした(32:29)。この戦いの後に、その人は彼を祝福しています。自我が徹底的に砕かれた時に与えられる祝福は、一時的なものではなく、永続的な祝福なのです。
創世記32:29
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。

 自我の塊のようだったヤコブが、神の恵みによって砕かれ、造り変えられて、ついに本来、神を見た者は生きることができないはずなのに(出33・20)、彼は「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」(32:30)と告白するほどに成長したのです。
私達も、自分で自分を変える力はありません。しかし、イエス様の十字架の血は、私たちの汚れた心をきよめ、この世の罪に勝たせ、聖霊に満たして、私たちを神の皇太子として下さるのです。
自分の力に寄り頼まず、自分の弱さを認め、ありのままの姿でイエス様のもとに近づくなら、神の方からも近づいて下さいますから、ただ、ひたすら神のみ顔を仰いで歩ませて頂きましょう。その時、私達は本当の勝利者となれるのです。
出エジプト33・20
33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

創世記32:30
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。

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