2008年2月24日 日曜日

クリスチャン生活での礼拝

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分46秒

ローマ人への手紙12章1、2節

クリスチャン生活の中で礼拝は大変重要です。ローマ書の著者パウロは、8章までに神の救いのご計画を教理的に述べ、12章からは、だからこそ救われた者はどう生きるべきかを実践的に示しています。その冒頭に記されているのが礼拝です。礼拝には、神様に対する面と人に対する面がありますが、今日は神に対する面を学びましょう。なぜなら、神様との関係が整えられてこそ、人との関係も健全になるからです。

第一に、からだをささげる礼拝、つまり献身です。
 皆さん、今日聖日礼拝を守れたことを神様に感謝しましょう。聖日礼拝にどうしても出席できない時や、そのような方もおられます。それはやむをえない事情ですのでわかります。私もそうでしたから。私が言いたいのは、心の動機です。常に神と交わり、みことばに立つ生活そのものが礼拝ですから、誤解しないで聞いて頂ければ幸いです。

旧約時代には、羊や牛などをほふり、供え物としてささげることが礼拝の重要な要素でしたが、パウロは、動物ではなく、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)と勧めています。キリストご自身が、私達の罪の身代わりとして十字架で死なれ、3日目によみがえられるという完全な供え物となって下さったゆえに、もはや動物を備える必要がなくなったのです。パウロは「あなたがた」と言っていますように、私達クリスチャンのからだを生きた供え物として、神に、当然ささげることが「霊的な礼拝」の意味です。なぜなら、私達は罪が赦され、永遠の命を下さった神に感謝し、礼拝をささげることが喜びに変えられるからです。
ローマ12:1
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

礼拝では、賛美、祈り、聖書朗読、説教、聖餐式、献金など、様々なことがなされますが、その根本にあるのは「からだをささげること」、即ち、献身です。私達クリスチャンは、自分の全身全霊を主の前に投げ出してこそ、神に受け入れられる礼拝となることを忘れてはなりません。

第二に、心の一新へと造りかえられて、心をささげる礼拝です。
 自分のからだをささげた者は、もはや自分の好きなように生きることから解放されます。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではない」(Ⅰコリント6・19)からです。だから、「この世と調子を合わ」(ローマ12:2)せず、この世とは違った、またそれまでの自分の生き方とは違った、キリストによって、新しい生き方をすることを決心すること。それが、「心の一新」ということです。世の中の人々の行動を見てそれに倣うのではなく、内住の聖霊の導きに従って生きていくのです。
Ⅰコリント6・19
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

ローマ12:2
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

私達は礼拝に出席してみ言葉を頂きます。悲しんでいる人には、慰めや励ましが与えられ、罪が示されたなら悔い改めて、きよめて頂くことができます。イエス様の十字架の愛によって心が新しくされ、私達はいつも神様に喜ばれるように変わり続けることができます。心とからだと生活のすべてを、神様に喜ばれるように仕えさせて頂きましょう。

第三に、わきまえを知り、それを実践する礼拝です。
 新しい生き方は、突然できるようになるわけではありません。「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」(ローマ12:2)ことによって、はじめて可能になるのです。プロテスタント教会の礼拝で、何よりも説教を重視するのは、まさにこのためです。神の御旨を十分に理解するために、聖書全巻に耳を傾けるのです。だから説教は、人の思想の発表や社会評論であってはなりません。神はどのようなお方であり、人に何を求めておられるかが明確に語られることこそ、説教で最も重要なことなのです。
 
礼拝は儀式ではありません。私達は生きたみことばを神からの語りかけとして、注意深く聞き分け、神が一人一人に与えようとしておられる行動の指針として受け入れ、生活で、どのように実践すべきかをみことばを通して教えて頂く機会でもあります。

 礼拝は、心から神様に感謝と賛美をおささげする日です。ルールを守るなら、自分が守られるように、日曜日の礼拝を喜んでささげるなら、私たち自身も神様に守られます。

そして、日ごとの家庭礼拝を初め、日々神に身をささげた者は、神の御旨を知ることを喜びとし、日々造りかえられていきます。このようにして、神と人との間の関係が整えられていくことは、教会生活の原点です。しかし、教会生活はそれだけのものではなく、同じ主を信じる他の兄姉と共に礼拝をささげることの大切さも忘れてはなりません。そして、
礼拝によって与えられた恵みを分かち合い、互いに交わり、共に祈り、弱さを共有することも大切です。

私達は、日々の生活で多くの問題が生じます。その時、イエス様なら、こんな時、どうするかを、いつでも考えて、神様に喜ばれる生活をさせて頂きましょう。

2008年2月17日 日曜日

クリスチャンとしての集会の意義

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分04秒

ヘブル人への手紙10章19-25節

 クリスチャンが希望をもって信仰生活を送るための第三の原則は、休まず集会に出席することです。一人で聖書を読み、祈ることも大切ですが、同じ主を信じる人々と一緒に交わり、礼拝や諸集会に励むことも重要です。今日は、その意義について考えてみましょう。

第一に、信仰をもって神に近づくことです。
 へブル書の著者は、18節で、キリストのからだがささげられたことにより「罪のためのささげ物はもはや無用です。」(10:18)と。それゆえ、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」(10:19)。また、イエス様の十字架の死によって、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたので(マルコ15・38)、大祭司が年に1度しか入れなかった至聖所にも入れるようにされ、さらに、人間の大祭司以上の「神の家をつかさどる、この偉大な祭司」(10:21)であるイエス様の血によって、私達は、「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近」(10:22)づくことができるようにされたのです。
ヘブル10:18,19,21,22
10:18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
マルコ15・38
15:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

旧約の民がしばしば神殿に集っていたように、イエス様を救い主と信じる新約の民は、イエス様が私の罪の身代わりとして、十字架で死んで下さったという信仰に堅く立って、共に神のみ前に近づくことができるのです。集会出席は、単なる人の集団に加わることではなく、罪を洗いきよめられた者達が一つ心になって、聖なる神のみ前に近づくことです。

第二に、集会出席して何をするのかです。
 私たちは集会を守るために教会に集いますね。多くの人は、十字架のついた建物を教会だと思っています。しかし、教会は建物のことをいうのではありません。教会はギリシャ語エクレーシアの訳で、「神様が呼び出してくださった人々の群れ」を指しています。教会はイエス様を頭とするキリストの体であり、クリスチャンはその肢体です。ある人は手であり、足であり、目であり、耳なのです。ですから、私達クリスチャンは、私達を呼び出して下さった神様のもとに集まり、集会を開いて、互いの信仰の望みを告白しつつ、励ましあって生きていくのです。それと共に、主の再臨が近いことを覚え、愛と善いわざに励み、声をかけ合って、共に再臨の日を待ち望むのです。

第三に、望みを告白することです。
 信仰は望みを生み出します。イエス様の贖いのゆえに罪が赦されたと信じる者は、将来、神の都に導かれる望みを持つことができます(11・16)。なぜなら、「約束された方は真実な方ですから」(10:23)、この望みは確実です。しかし、現実の世界では様々な試練がやってきます。その試練に打ち勝つためには、その望みを告白し続けることがどうしても必要になってきます。新共同訳では、23節は「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」と訳されていますように、「公に言い表す」とは、集団の中での行動で、個人的にではなく、集会の中で、皆と一緒に言い表すのです。
ヘブル11・16
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
ヘブル10:23
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

 イエス様を救い主と信じる者は、天国に向かって歩みますが、それは一人旅ではありません。仲間と共に、希望を共に告白しつつ進んでいくのです。ちょうど旧約時代、イスラエルの民が詩篇120-134篇の「都もうでの歌」を歌いつつ、エルサレムをめざして進んでいったように、共に集うことは、同じ望みを持つ者にとって不可欠です。

第四に、愛と善行を励むことです。
 信仰と希望によって歩んでいるなら、そこに愛と善行が実現するのは当然でしょう。一人一人は弱い者であっても、「互いに勧め合い」、「励まし合い」(10:24,25)、強められるのです。
 もし、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたり」(10:25)したなら、私たちがどんな素晴らしい信仰をもっていたとしても、その信仰の火は弱くなり、ある場合は消えてしまうでしょう。薪は一本だけなら、いつの間にか消えてしまいますが、数本が一緒に燃えているなら、互いの熱を与えあって、最後まで燃え続けます。そのようにして互いに刺激し合い、互いの信仰を強め、望みを明確にし、愛と善行をするようにされていくのです。共に集う時に他の人を励ますなら、それは自分自身を豊かに成長させることになります。
ですから、集会に出席することは、お互いにとっても、とても大切なことです。

 「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(10:25)とは、主イエスが再びおいでになる時が近いことを意味していますが、その時、私たちはどう生きたかが問われます。イエス様から、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25・40)と言われるよう、「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」(10:24)。
ヘブル10:24,25
10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
マタイ25・40
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

キリストの十字架は、私達を神の子とするためです。そして、神の子として歩む時のみ、キリストの体である教会の真の交わりに結び合わされ、かしらであるキリストにつながることができるのです。つまり、神との関係を土台として、人間関係を構築するなら、それを通してイエス様が、祝福を与え、神との関係もより成熟した関係へと成長させて下さいます。そのようにして、互いに相互依存しあって、教会が成長していくのです。その成長のためにも、今年も神様が与えて下さった礼拝と諸集会に励みましょう。

2008年2月16日 土曜日

2008年2月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 18時49分42秒

「最も病気になりやすい人、死亡率の高い人は、ひとりぼっちの生活をしている人、孤立して生活している人である。」と言われます。また人は「もっと私のことをわかってくれたら」と思います。そして、人間は誰でも共にいてくれる存在を求めています。聖書では、キリストが「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(新約聖書ヘブル人への手紙13章5節)と約束して下さっています。そして、いつも愛に溢れ、いつくしみ深きキリストが支えて下さいます。
あなたの心に永遠に至るまで共にいて下さるお方がいますか。あなたを一人の人格者として認め、喜びも悲しみも共に背負って下さるお方と出会って下さい。お祈り申し上げます。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」
(新約聖書ヨハネの福音書14章18節)

2008年2月10日 日曜日

クリスチャンとしての祈りの生活

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分02秒

エペソ人への手紙6章10-20節
 クリスチャンが希望を持って信仰生活を送るために必要な第一の原則として、聖書はいのちの糧であることを先週学びました。第二の原則は、常に祈ることです。聖書が神から私たちへの語りかけとするなら、祈りは私達から神への語りかけと言えます。両者がそろって、初めて神と人とのコミュニケーションが成り立ちます。今日は祈りの生活について考えてみましょう。

第一は、祈りの時は、楽しいということです。
 私たちの毎日の生活の中に、困ったなあ、どうしようという悩みや困難、またさまざまな誘惑が襲ってきます。そんな時、静かに祈りの時を持つと不思議と心は平安になり、神様が力づけ、慰めて下さるので、祈りの時は楽しいのです。どんな時に祈りますか。祈りはいつでも、どこでも、どんな時でもOKです。

第二に、祈りは、この世の最強の悪魔と戦う力・武器です。
 教会は主のからだであるゆえに、その使命は、「血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもので」(6:12)、戦いの敵は、この世の思想や行為を支配している悪魔・サタンです。だからパウロは、人間的な能力に頼るのではなく、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(6:10)と命じておられるのです。「主にあって」とは、パウロが何度も用いている句であり、イエス様と一体化することを指しています。
エペソ6:10,11
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

悪魔の誘惑・策略は非常に悪賢く、最初は天使のささやきのごとくやってきます。それに対抗する手段は、御霊の与える武具である「神のことば」の真理以外にありません(6:17)。このみことばを正しく把握するために、「どんなときにも御霊によって祈る」(6:18)ことが必要です。私達は、この戦いのために、祈りの武器と、常に神のみことばを受け取っているでしょうか。
エペソ6:17,18
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

第三に、祈りは、自分を守る力です。
 獄中で、この書簡を書いていたパウロは、武装した兵士たちの姿を何度も見、それにヒントを得たのでしょう。彼は、霊的な戦いに勝つために、「神のすべての武具を身に着け」(6:11)て、「身を固め」、「神のすべての武具をとりなさい。」(6:13)と、二度繰り返すほど、重要なのです。そして、「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け」(6:14)、「足には平和の福音の備えをはき」(靴)(6:15)、「信仰の大盾を取り」(6:16)、「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(6:17)という6種類の武具を挙げています。
エペソ6:10,11-16
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

 悪魔は手を変え品を変え、私たちを誘惑してきます。特に、悪魔の3本槍といわれる、金・名誉・異性が、どれほど多くのクリスチャンの命を奪ってきたことか。5種類の防具で身を固めても、具体的な行動は、結局祈りしかありません。
 そしてイエス様も、荒野で三度、悪魔に試みられた時(マタイ4章)、そのたびに聖書の言葉を用いて応戦されました。これが攻撃用武器の「御霊の与える剣である、神のことば」(6:17)です。

「真理」「正義」「福音」(6:14,15)は同義語であって、これらを身につけるということは、主にあって歩むということです。そして「信仰の大盾」(6:16)は、この真理の主に対するクリスチャンの姿勢です。これらすべての装備は、主イエス・キリストによって備えられ、御霊によって私達に与えられているのです。それがなければ、私達は羊のように無防備で、弱い存在にすぎないのです。
 そして、悪魔の攻撃から身を守るためには、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましてい」(6:18)る必要があります。油断は禁物です。悪魔の誘惑だと感じたなら、どんな時でも、「主よ、助けてください」と祈ることです。

第四に、祈りは、他者を助け、みわざを起こす力です。
 バウロは、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(6:18)と命じると共に、「私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」(6:19)と祈りの応援を求めています。あの偉大な使徒パウロであっても、弱さを知るゆえに、謙遜に願い求めつつ、多くの人々の祈りに支えられ、福音宣教を推し進めたのです。
エペソ6:18,19
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
6:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。

 主のからだである教会では、祈りが不可欠です。祈ってもらわなくても大丈夫だという人がいるとするなら、その人は倣慢です。誰かが自分のために祈ってくれている。そして、自分も誰かのために祈るという相互の祈りにより、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建て」(エペソ4・16)上げられていくのです。

 祈りによって、私たちは主イエスと豊かな交わりをもつことができ、主と一つにされる経験をすることができると共に、主にある兄姉とも一つとされる。このとき、悪魔はもはや手出しすることはできません。信仰生活における祈りの重要性を強調しすぎることはありません。神様の御心を求めて祈りましょう。

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