2008年2月17日 日曜日

クリスチャンとしての集会の意義

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分04秒

ヘブル人への手紙10章19-25節

 クリスチャンが希望をもって信仰生活を送るための第三の原則は、休まず集会に出席することです。一人で聖書を読み、祈ることも大切ですが、同じ主を信じる人々と一緒に交わり、礼拝や諸集会に励むことも重要です。今日は、その意義について考えてみましょう。

第一に、信仰をもって神に近づくことです。
 へブル書の著者は、18節で、キリストのからだがささげられたことにより「罪のためのささげ物はもはや無用です。」(10:18)と。それゆえ、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」(10:19)。また、イエス様の十字架の死によって、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたので(マルコ15・38)、大祭司が年に1度しか入れなかった至聖所にも入れるようにされ、さらに、人間の大祭司以上の「神の家をつかさどる、この偉大な祭司」(10:21)であるイエス様の血によって、私達は、「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近」(10:22)づくことができるようにされたのです。
ヘブル10:18,19,21,22
10:18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
マルコ15・38
15:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

旧約の民がしばしば神殿に集っていたように、イエス様を救い主と信じる新約の民は、イエス様が私の罪の身代わりとして、十字架で死んで下さったという信仰に堅く立って、共に神のみ前に近づくことができるのです。集会出席は、単なる人の集団に加わることではなく、罪を洗いきよめられた者達が一つ心になって、聖なる神のみ前に近づくことです。

第二に、集会出席して何をするのかです。
 私たちは集会を守るために教会に集いますね。多くの人は、十字架のついた建物を教会だと思っています。しかし、教会は建物のことをいうのではありません。教会はギリシャ語エクレーシアの訳で、「神様が呼び出してくださった人々の群れ」を指しています。教会はイエス様を頭とするキリストの体であり、クリスチャンはその肢体です。ある人は手であり、足であり、目であり、耳なのです。ですから、私達クリスチャンは、私達を呼び出して下さった神様のもとに集まり、集会を開いて、互いの信仰の望みを告白しつつ、励ましあって生きていくのです。それと共に、主の再臨が近いことを覚え、愛と善いわざに励み、声をかけ合って、共に再臨の日を待ち望むのです。

第三に、望みを告白することです。
 信仰は望みを生み出します。イエス様の贖いのゆえに罪が赦されたと信じる者は、将来、神の都に導かれる望みを持つことができます(11・16)。なぜなら、「約束された方は真実な方ですから」(10:23)、この望みは確実です。しかし、現実の世界では様々な試練がやってきます。その試練に打ち勝つためには、その望みを告白し続けることがどうしても必要になってきます。新共同訳では、23節は「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」と訳されていますように、「公に言い表す」とは、集団の中での行動で、個人的にではなく、集会の中で、皆と一緒に言い表すのです。
ヘブル11・16
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
ヘブル10:23
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

 イエス様を救い主と信じる者は、天国に向かって歩みますが、それは一人旅ではありません。仲間と共に、希望を共に告白しつつ進んでいくのです。ちょうど旧約時代、イスラエルの民が詩篇120-134篇の「都もうでの歌」を歌いつつ、エルサレムをめざして進んでいったように、共に集うことは、同じ望みを持つ者にとって不可欠です。

第四に、愛と善行を励むことです。
 信仰と希望によって歩んでいるなら、そこに愛と善行が実現するのは当然でしょう。一人一人は弱い者であっても、「互いに勧め合い」、「励まし合い」(10:24,25)、強められるのです。
 もし、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたり」(10:25)したなら、私たちがどんな素晴らしい信仰をもっていたとしても、その信仰の火は弱くなり、ある場合は消えてしまうでしょう。薪は一本だけなら、いつの間にか消えてしまいますが、数本が一緒に燃えているなら、互いの熱を与えあって、最後まで燃え続けます。そのようにして互いに刺激し合い、互いの信仰を強め、望みを明確にし、愛と善行をするようにされていくのです。共に集う時に他の人を励ますなら、それは自分自身を豊かに成長させることになります。
ですから、集会に出席することは、お互いにとっても、とても大切なことです。

 「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(10:25)とは、主イエスが再びおいでになる時が近いことを意味していますが、その時、私たちはどう生きたかが問われます。イエス様から、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25・40)と言われるよう、「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」(10:24)。
ヘブル10:24,25
10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
マタイ25・40
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

キリストの十字架は、私達を神の子とするためです。そして、神の子として歩む時のみ、キリストの体である教会の真の交わりに結び合わされ、かしらであるキリストにつながることができるのです。つまり、神との関係を土台として、人間関係を構築するなら、それを通してイエス様が、祝福を与え、神との関係もより成熟した関係へと成長させて下さいます。そのようにして、互いに相互依存しあって、教会が成長していくのです。その成長のためにも、今年も神様が与えて下さった礼拝と諸集会に励みましょう。

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