2008年3月30日 日曜日

すばらしい御国の約束を信じ、待ち望む

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分03秒

ヨハネの福音書14章1-2節

私達の教会で、昨年3回キリスト教式の葬儀をしました。愛する人、親しい人との別れは悲しく、つらいものですが、それでもクリスチャンの葬儀には希望があります。なぜか。それは天国の約束があるからです。そのことを今日は考えてみましょう。

第一は、イエス・キリストの約束(ヨハネ14:2,3)です。
 十字架にかかる前、イエス様は弟子たちに約束されました。それは、ヨハネ14章2,3節の「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と。

 十字架の死の三日後によみがえられたイエス様は、私達のために救いを完成して下さいました。ですから、イエス様を自分の罪からの救い主と信じる者は、罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちが約束されています。「永遠のいのち」とは、死んだあとにいのちがずっと続くという意味だけではありません。「永遠」という言葉は、「神」ご自身のことを別の形で表現したものでもありますから、永遠のいのちとは、神のいのちのことです。つまり、今地上で生きているこの段階から、新しい神のいのちに私たちが満たされて生きるようになるのです。

 でも、地上の人生の死後に神の国(天国)で神と共に永遠に生きることができるという意味であることも間違いありません。私たちの救いは、やがてイエス様が再びこの世に来られ、世の終わりを迎えて後、天国で生きるようになって、最終的に完成するのです。

第二は、新しい天と新しい地(黙示録21:1-4)です。
 よみがえられたイエス様は、再びこの世界においでになると聖書は約束しています(lテサロニケ4:16,17)。その時、イエス様を信じて死んだ人たちはよみがえり、生きている人は朽ちないからだに変えられます。そして、新しい神様の御国に招かれるのです。神様は、使徒ヨハネに、その新しい世界の幻をお見せになりました。
lテサロニケ4:16,17
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

黙示録21章1-4節に「私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」と。

 聖書は、天地創造の記事から始まり、創造主なる神は天と地を造り、そこに人を住まわせ、時の流れ、歴史の営みを進めて下さいました。
 その歴史の中で人間は罪を犯し、神から離れましたが、神は救いのご計画を備えて下さり、イエス様は、十字架の贖(あがな)いを完成して下さいました。イエス様の贖いを信じる者達は、卑しいからだを、栄光のからだに変えて下さるのです(ピリピ3:21)そこには新しい創造があります。そして、今私達が生きている世界の天と地は過ぎ去って、新しい天と地が現れます。
ピリピ3:21
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 こういうわけで、私たちが最終的に頂く救いの完成された状態を「新しい天と地、新しいエルサレムで、神と共にいつまでも住むことができるようになる」と表現しているのです。
 その場所が具体的にどのような場所であるかということより、神の祝福にどれほど豊かに満たされた場所であるかということに目を留めることが大切です。

第三は、新しい都とはどんなところでしょうか(黙示録21:9-22:15)。
 黙示録21章11節に「 都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」と。12-21節には、都の城壁や門がたくさんのすばらしい宝石によってできていると書いてあります。これが新しい都、天国です。

 この都には、神様を礼拝する神殿がありません(21:22)。なぜなら、神様ご自身と小羊なるイエス様が、おられるので必要なく、太陽も月も夜もありません(21:23)。神様の栄光が都を照らしているからです。そして、12の門はいつでも入れるように、閉じられることなく(21:25)、そこにはいのちの水の川が流れていて、そのほとりの木にはいつもさまざまな実がなり、豊かな緑の葉が人々を癒やします(22:1,2)。このような素晴らしい都で、人々は神様とイエス様のお顔を仰ぎ見ながら礼拝し、賛美をささげ、いつまでも幸せに暮らすのです。
黙示録21:22,23,25
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

黙示録22:1,2
22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

第四は、いのちの書(黙示録21:27,ヨハネ14:1-3)です。
 それでは、天の御国には、だれでも入ることができるのでしょうか。黙示録21章8節や27節に、「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」と記されていますように、うそをついたり、悪いことをしたり、人を許せない、さばく心を持ったままでは、天の御国に入ることができません。でも、イエス様が、自分の罪を赦すために十字架にかかって下さった救い主であることを信じるなら、すべての人は、「小羊のいのちの書」に名前を書いて頂くことができるのです。
黙示録21:8
21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

イエス様が私たちのために用意して下さった住まいは、地上のどんな場所よりも素晴らしいところで、あまりの素晴らしさに私達はきっと息をのみ、イエス様を信じてよかったと心から感謝するに違いありません。そこでは、イエス様を信じて先に召された人たちとも会うことができますし、イエス様の弟子たちや聖書に出てくるいろいろな人に会うこともできるのです。必ずその日が来ることを信じて、今のこの世で神様に従いつつ、喜びをもって歩んでいきましょう。

第五は、御国を信じる(使徒1:3-11)ことです。
 人類はずっと死後の世界に不安と恐怖を抱いてきました。いろいろと想像して語ってきましたが、見てきた人は誰もいません。ただイエス様だけが、使徒1章3節から11節を見ますと、復活の後、40日間神の国のことを語り、天に上(あげ)られました。この世界はやがて終わり、神の国がやってきます。その神の国に私たちが招き入れられ、永遠に神を礼拝し、神に仕えることが聖書の私達に対する最後の勧めです。その御国を信じますか。それこそが大きな問題です。
 なぜまだ見たこともない未来を信じられるか。それは、1、聖書は、神の言葉だから、確実に実現します(マタイ24:25)。2、歴史の事実です。私達は未来を見ること、知ることはできませんが、歴史的・過去の事実によって、未来も神は、支配しておられることを知ることができます。

イエス様の十字架と復活は、私達を神の国に招き入れることが最終的な目的ですから、イエス様を信じ、イエス様が用意して下さった神の国に入るその日を、信仰をもって待ち望みつつ、すべての人が天国に入れるように宣教の業に励みつつ歩みましょう。
使徒1:3-11
1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

マタイ24:35
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

2008年3月23日 日曜日

復活の事実こそハッピー

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マタイによる福音書28章1-10節

今日はイースター、イエス・キリストが復活された記念の日曜日で、クリスマスと共に、全世界でお祝いされていますが、今日は、イエス様の復活がなぜハッピーなのかを2つの面から考えて見ましょう。

第一は、イエス様が死人の中から復活された証拠と事実は何かです。
イエス様が十字架で死なれたのは、金曜日の午後3時頃で(マタイ27:46)、その後、アリマタヤ出身のヨセフがイエス様の遺体を引き取って、ヨセフと二コデモはイエスの遺体に香油を塗り、投薬とアロエを混ぜたものに浸した亜麻布を巻いて遺体を葬りました(ヨハネ19・39~40)。イエスの遺体は、岩を横から掘って造られた新しい墓に納められ(マタイ27:59~60)、大きな石によって墓の入口が塞がれ、翌日には、祭司長やパリサイ人の要望を受けて、総督ピラトは兵士たちをイエスの墓に遣わし、石に封印をして、番をさせました(マタイ27・62~66)。
マタイ27:46
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

ヨハネ19・39~40
19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。

マタイ27:59~60
27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。

マタイ27・62~66
27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」
27:65 ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。
27:66 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。

「安息日が終わって、週の初めの日の明け方」(マタイ28:1)すなわち日曜日の早朝に、マグダラのマリヤとイエスの母マリヤとサロメが香料を持って墓に向かいました(マルコ16・1~2)。とても中に入れる状況ではないのに、イエスを愛していたので、そうせずにはいられなかったのです。
墓に行ってみると、墓石が転がされ、御使いがそこに座り、「女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」(マタイ28:5,6)。「はいって見ると、主イエスのからだはなかった。」(ルカ24・3)のです。
マタイ28:1
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

マルコ16・1~2
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

ルカ24・3
24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。

そして、イエス様がよみがえられた何よりの証拠は、イエス様ご自身がよみがえられたお姿を、女性達や弟子たち、その他多くの人々に現されたことを聖書は、事実として書き記しています。

第二は、イエス様が死人の中から復活されたということは、私たちにとってどのような意味をもっているのでしょうか。
その1、イエス様の復活は、イエス様が神であったことを示しています。イエスは何度も、自分がよみがえることを予告し、その予告は事実となりました(ローマ1:4)。
 世の人々は、世界の四大聖人として、釈迦、孔子、ソクラテス、イエス様の名をあげますが、釈迦も孔子もソクラテスも死んだが、復活しなかった。彼らは聖人と仰がれる偉大な人物であったかもしれませんが、神ではなかった。ただイエス様だけが、死人の中から復活し、神の子であることを公に宣言されたのです。
ローマ1:4
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

その2、Ⅰペテロ1章3~4節で、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」と語るように、その人を新しく生まれさせ、天国を継ぐ者として下さいます。

その3、イエス様の復活は、私たちの救いが確実なものであることを保証しています。
第一コリント15章54-57節を見ますと、イエス様は復活によって、罪に対する刑罰であり、最後の敵である死にも打ち勝った(参照Ⅰコリント15:54,55)。イエス様は、十字架において救いの約束を成就しましたが、復活によってその約束の成就が確実なものであることを保証しました。復活によるイエス様の圧倒的な勝利によって、罪も死もカを失ってしまったのです。
1コリント15:54-57
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

その4、イエス様の復活は、私達を義なる者と認めて下さいます。
キリストが罪に対して勝利を得たように、私たちも罪に対して勝利を与えて下さるばかりか(参照Ⅰコリント15:57)、ローマ4章25節で、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と語っていますように、神様はイエス様を救い主と信じる者を義なる者、一度も罪を犯したことがない者と認めて下さるだけでなく、罪の支配から解放し、新しい命にある歩みを始めることができるようにさせて下さるのです(参照ローマ6:4-9)。
つまり、イエス様の復活には、十字架によって私達の罪の代価が支払われたことを確認する、一種の領収書のような役割があります。
ローマ6:4-9
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

その5、イエス様の復活は私たちに希望を与えてくれます。
ピリピ3章21節で、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」と語るように、キリストの復活によって、人間には、どうしても勝利できない最後で、最大の敵であった死に対する勝利と、その人をイエス様と同じ復活の体、栄光の体に変えて下さいます。

多くの人々は死を恐れていますが、キリストの復活を信じる者は死を恐れません。なぜなら、キリストが死に打ち勝って復活したからです。キリスト者にとって、死が終わりではなく、死は復活の栄光に到達するための、通るべき道にすぎないからです。

イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架にかかられ、死に勝利してよみがえられたことによって、私たちの救いの道が開かれ、天国への道が開かれ、やがてイエスが再臨する時によみがえらされ、イエスと共に永遠に生きることができる望みがあります。このキリストの復活の事実こそ喜び、ハッピーの源泉そのものであり、私達の希望なのです。

2008年3月16日 日曜日

十字架に示された神の愛

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ルカによる福音書23章32-38節

教会暦では、今日は椋梠(しゅろ)の主日と言って、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城された日です。そして今日から受難週が始まります。ゲツセマネの園で祈られたイエス様は捕えられ、翌日の金曜日に十字架につけられたのです。今日はイエス様の十字架に示された神の愛について学びましょう。

第一は、嘲り裏切る罪人の姿です。
 イエス様が十字架につけられた時、ユダヤの指導者たちは「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
(23:35)とあざ笑い、ローマの兵士たちも「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」(23:37)と罵り、イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人までもが「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」(23:39)と悪口を言います。イエス様の頭上には「これはユダヤ人の王。」(23:38)と皮肉をこめて書いた札が掲げられ、私たちには、耐えがたいほどの屈辱を受けて十字架に上げられたのです。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言っていたペテロをはじめ弟子たちも、イエス様を見捨てて逃げました。十字架のイエス様の周りには、自己中心な醜い人間の姿が渦巻いていたのです。
ルカ23:23,35-39
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

第二は、実行された愛です。
 イエス様は、金曜日の深夜にオリーブ山で、祭司長、長老などによって捕らえられ、十字架にかかられる前夜から徹夜で、大祭司カヤパ、ユダヤ議会、ローマの総督ピラト、ガリラヤの領主へロデなどのもとへ引き回されて、イエス様は、何度も不当の裁判を受けられ、ピラトは「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」(23:14-16)と。しかし、群衆の大きな声に押されて、「彼らの要求どおりにすることを宣告」(ルカ23:24)します。
イエスは十字架刑に処刑される前に、ローマの兵隊によって鞭で打たれ、頭にはいばらの冠をかぶせられ、傷つき弱りきった体で太く重い十字架を背負いながら、ゴルゴタの丘へと向かわれました。 
ルカ23:24
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。

 イエス様は、神の前にも人の前にも全く罪の無いお方です。それなのにイエスは「ふたりの犯罪人」(23:32)と共に十字架にかけられました。「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである」(イザヤ53:12)という預言が、こうして成就したのです。
ルカ23:32
23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

イザヤ53:12,10
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 イエス様の受難は、その一つ一つが預言されたことは、神のみこころでした(イザヤ53:4,10)。
神は、神に背いて永遠の滅びに向かう罪人たちをなおも愛し、救うために、罪無きひとり子を罪人たちの身代わりとして処罰されたのです。神の愛は観念や感情にとどまらず、イエス様の十字架という具体的な形で実行され、そのことを通して、私たちに神の愛の真実さが証明されたのです。
         
第三は、罪人を赦す愛です。 
 イエス様の手と足に釘が打ち込まれ、その激痛に耐え、息も止まるような中で、ご自分を苦しめて殺すこの人々のために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(23:34)と祈られました。
 
 これほどの愛が私たち人間の内にあるでしょうか。私たちは、自分を憎み、攻撃し、危害を加える人を赦せるでしょうか。その人のために、神に赦しを求め、祝福を求めて、祈れるでしょうか。
 否、むしろ私たちは、イエスを冒涜し、殺した人々の如く、「不敬虔な者」(ローマ5:6)「罪人」(ローマ5:8)であり、神様に「敵」(ローマ5:10)対する者でした。自分で自分が何をしているのかわからずにいる、この愚かな私たち、真の愛から遠く離れていた私たちを、神様は、御子イエス様の身代わりの死ゆえに、無条件で赦して、受け入れて下さるのです。
ローマ5:6.8,10
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

第四は、いのちを与える愛です。
  イエス様と共に十字架にかけられた二人の犯罪人のうち、一人は悔い改めて「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(23: 23:40,41,42)と告白しています。それに対して、「イエスは彼に言われた、『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(23:43)と。

第五は、イエス様は、犯罪人になぜ「ともにパラダイスにいる」と言われたのかです。
この男は、イエス様をキリストと信じる信仰によって、罪が赦され、永遠のいのちを与えられて、天国に入れて頂いたのです。ここで2つの疑問が出てきます。その1つは、イエス様は、なぜそう言えたのかです。それはヨハネ14:6に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあるからです。そして天国に行くには、神と和解しなければなりません。神との和解は、十字架と復活によって完了するからです。その2は、イエス様は、犯罪人になぜ天国に入れると言われたのか。犯罪人の側から考えて見ると、それは、3つあります。①驚くべき信仰、②自分が罪人であることを認め、悔い改めたこと、③へりくだった心の姿勢を見ることができます。これが御国に入る条件です。たとえ、犯罪人でも、罪を悔い改め、イエス様の前にへりくだった姿で出るなら、罪の許されないものはないということです。私たちは、いつ死ぬかわかりません。それゆえ常に、この犯罪人、いや私自身も同じように犯罪人であり、十字架にかかるべき存在でしたが、憐れみのゆえに罪が赦された者として、高慢にならないで、謙虚に神のみ前に出る心の姿勢を持ち続けることが大切でしょう。

 イエス様は今も生きておられ、罪人たちのために、「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)と、私達の罪を赦すために、自ら十字架に命を捨てて、とりなし祈っておられる(ヘブル7・25)ゆえに、御子イエス様の血によって、私たちの罪は完全に赦され、完全にきよめられる。ここに救いがあるのです。このほかに罪の赦しと永遠の命、そして真実な愛はないのですから、十字架の福音を固く信じて歩みましょう。
ルカ23:34
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

ヘブル7・25
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

2008年3月9日 日曜日

ゲッセマネの祈りから学ぶ

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分42秒

ルカの福音書22章39-46節

今日は、明日十字架にかけられるという前夜、イエス様はどのようなお祈りをされたかを学びましょう。

第一は、神の時を知ることです。
 イエス様が苦しみを受けて死なれたのは、ちょうど過越の祭りの時でした(22:1)。この祭りは、モーセに率(ひき)いられてイスラエルの民がエジプトを脱出する前に、神様がエジプトにいるすべての初子を打ち殺すというさばきを行なわれますが、ただし、傷無き小羊の血を家の入口の柱とかもいに塗った家は、神様が過ぎ越され、さばきを免れ、エジプトを脱出したことを記念して毎年行なわれるものです(出エジプト12:5~14)。
ルカ22:1
22:1 さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。

出エジプト12:5~14
12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

 神の御子イエス様は、まさに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)として、この過越の祭りの時に、十字架で血を流して死なれたのです。
 イエス様は、その十字架の死の意味を明確に示すために、弟子たちと過越の食事をすることを切に望まれ、それを実行されたのです(ルカ22:14~20)。
ヨハネ1・29
1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

ルカ22:14~20
22:14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

その食事の後、敵に捕らえられる前に、イエス様はエルサレム城外にあるオリーブ山のゲッセマネの園に行き、「いつものように」(22:39)、「いつもの場所」(22:40)で祈られました。そこはイエス様が、たびたび弟子たちと祈られた場所であり、イエス様を裏切った弟子ユダもよく知っており(ヨハネ18・2)、危険な場所です。それでも、イエス様は「今」(ルカ22:18,36,53)が父なる神の定められた「時」であることをわきまえて、「いつものように・・いつもの場所」で祈られたのです。しかし、弟子たちには、この時の意味を悟ることができませんでした。
 私達も、神様の時を逃さないためと、誘惑に陥らないために(22:40)、目を覚まして、神に祈り、神と交わる必要があります。
ルカ22:39,40
22:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。

ルカ22:18
22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

第二は、ありのままの祈りです。
 イエス様はまず、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」(22:42)と祈られました。「父よ」という呼びかけは、子どもが父親を呼ぶ親しい呼び方であり、父なる神と子なるイエス様は、天地創造の前から永遠に続く最も強固な交わりを持っておられたのです。
ルカ22:42
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

また「この杯」とは、父なる神によって定められた十字架の死、神のさばきを意味しています。
イエス様は、できるならばこの十字架の道をわたしから取りのけてください、と父なる神様に訴えられたのです。それは、イエス様の心の奥底からの、ありのままの祈りでした。

 私達も、神様の前に祈る時、どのような祈りをささげていますか。うわべだけ、形だけで祈っていないでしょうか。誰にも言えないようなことであったとしても、神様の前には心を開いて本音で、自分の心の奥底にある思いをありのまま祈る時、神様は私達の心の苦しみを全部受け止めて下さいます。

第三は、みこころに従う祈りです。
 イエス様は、「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(22:42)と祈られました。これこそ、祈りの真髄であり、イエス様の中には、人となられたご自分の思いと、父なる神様のみ心という二つの思いがありました。
御父の「みこころ」とは、最愛のひとり子を犠牲にしなければならない苦痛・悲嘆で、それはすべて、神に反逆して生きる罪深き人間を赦すためでした。父なる神様は、永遠の刑罰を受けるべき私たち罪人を救うために、罪無き御子のいのちを代価として差し出すことによって、すべての人が救われる道が開かれるということです。イエス様は、父なる神様を愛する愛と、罪人である私達を愛する愛のゆえに、ご自分の思いをささげて、父なる神様のみ心に従う道を選び取られたのです。

 私達も神様に従っていこうとする時、神様の思いと自分の思いが違う場合があります。二つの心のどちらに従うでしょうか。私を救うために、自分の思いを捨てて父なる神様のみ心に従ったイエス様の愛を思い、私達も神様のみ心に従う者とならせて頂きたいものです。

第四は、苦しみを伴う祈りです。
 44節に「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(22:44)とあります。マタイによる福音書には、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(26:38)と弟子たちに語っておられます。このイエス様の死ぬほどの苦しみとは何だったのでしょうか。それは、すべての人の罪をご自分一人で背負い、罪人として十字架にかかり、神のさばきを受けて捨てられる、それは父なる神との交わりが断たれてしまうということでした。イエス様にとってこれ以上の苦しみはなかったのです。でもイエス様はその祈りの中で、耐えられないような苦しみに対して勝利され、「立ち上がり」(2245)、十字架に向かって、まっすぐに進んで行かれました。
ルカ22:44,45
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。

マタイ26:38
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

十字架を前にイエス様は一人、父なる神様の前に祈られました。それは、父なる神を愛し、罪人である私達を愛するゆえのイエス様の苦しみの祈りでした。ゲッセマネにおける死ぬほどの悲しみ、苦しみの祈りなくして、十字架の道と栄光ある勝利の道はなかったのです。それ以上に、私達への罪からの救いの道が開かれなかったのです。

私達の人生で、たとえ、苦しみから逃げ出したい、死んでしまいたいと思うようなことがあったとしても、イエス様の、この祈りを思い起こし、そこにある真実の愛によって、神様のもとへ行く時、神様は、脱出の道と共に、み言葉によって私たちを慰め、勇気を与え、励まし、その苦しみを乗り越える力と助けを与えて下さいます。   
私達は、自分の負うべき十字架から逃げないで、イエス様の憐れみと助けを受けて、勝利するまで祈り求めましょう。

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