2008年3月16日 日曜日

十字架に示された神の愛

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分52秒

ルカによる福音書23章32-38節

教会暦では、今日は椋梠(しゅろ)の主日と言って、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城された日です。そして今日から受難週が始まります。ゲツセマネの園で祈られたイエス様は捕えられ、翌日の金曜日に十字架につけられたのです。今日はイエス様の十字架に示された神の愛について学びましょう。

第一は、嘲り裏切る罪人の姿です。
 イエス様が十字架につけられた時、ユダヤの指導者たちは「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
(23:35)とあざ笑い、ローマの兵士たちも「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」(23:37)と罵り、イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人までもが「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」(23:39)と悪口を言います。イエス様の頭上には「これはユダヤ人の王。」(23:38)と皮肉をこめて書いた札が掲げられ、私たちには、耐えがたいほどの屈辱を受けて十字架に上げられたのです。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言っていたペテロをはじめ弟子たちも、イエス様を見捨てて逃げました。十字架のイエス様の周りには、自己中心な醜い人間の姿が渦巻いていたのです。
ルカ23:23,35-39
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

第二は、実行された愛です。
 イエス様は、金曜日の深夜にオリーブ山で、祭司長、長老などによって捕らえられ、十字架にかかられる前夜から徹夜で、大祭司カヤパ、ユダヤ議会、ローマの総督ピラト、ガリラヤの領主へロデなどのもとへ引き回されて、イエス様は、何度も不当の裁判を受けられ、ピラトは「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」(23:14-16)と。しかし、群衆の大きな声に押されて、「彼らの要求どおりにすることを宣告」(ルカ23:24)します。
イエスは十字架刑に処刑される前に、ローマの兵隊によって鞭で打たれ、頭にはいばらの冠をかぶせられ、傷つき弱りきった体で太く重い十字架を背負いながら、ゴルゴタの丘へと向かわれました。 
ルカ23:24
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。

 イエス様は、神の前にも人の前にも全く罪の無いお方です。それなのにイエスは「ふたりの犯罪人」(23:32)と共に十字架にかけられました。「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである」(イザヤ53:12)という預言が、こうして成就したのです。
ルカ23:32
23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

イザヤ53:12,10
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 イエス様の受難は、その一つ一つが預言されたことは、神のみこころでした(イザヤ53:4,10)。
神は、神に背いて永遠の滅びに向かう罪人たちをなおも愛し、救うために、罪無きひとり子を罪人たちの身代わりとして処罰されたのです。神の愛は観念や感情にとどまらず、イエス様の十字架という具体的な形で実行され、そのことを通して、私たちに神の愛の真実さが証明されたのです。
         
第三は、罪人を赦す愛です。 
 イエス様の手と足に釘が打ち込まれ、その激痛に耐え、息も止まるような中で、ご自分を苦しめて殺すこの人々のために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(23:34)と祈られました。
 
 これほどの愛が私たち人間の内にあるでしょうか。私たちは、自分を憎み、攻撃し、危害を加える人を赦せるでしょうか。その人のために、神に赦しを求め、祝福を求めて、祈れるでしょうか。
 否、むしろ私たちは、イエスを冒涜し、殺した人々の如く、「不敬虔な者」(ローマ5:6)「罪人」(ローマ5:8)であり、神様に「敵」(ローマ5:10)対する者でした。自分で自分が何をしているのかわからずにいる、この愚かな私たち、真の愛から遠く離れていた私たちを、神様は、御子イエス様の身代わりの死ゆえに、無条件で赦して、受け入れて下さるのです。
ローマ5:6.8,10
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

第四は、いのちを与える愛です。
  イエス様と共に十字架にかけられた二人の犯罪人のうち、一人は悔い改めて「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(23: 23:40,41,42)と告白しています。それに対して、「イエスは彼に言われた、『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(23:43)と。

第五は、イエス様は、犯罪人になぜ「ともにパラダイスにいる」と言われたのかです。
この男は、イエス様をキリストと信じる信仰によって、罪が赦され、永遠のいのちを与えられて、天国に入れて頂いたのです。ここで2つの疑問が出てきます。その1つは、イエス様は、なぜそう言えたのかです。それはヨハネ14:6に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあるからです。そして天国に行くには、神と和解しなければなりません。神との和解は、十字架と復活によって完了するからです。その2は、イエス様は、犯罪人になぜ天国に入れると言われたのか。犯罪人の側から考えて見ると、それは、3つあります。①驚くべき信仰、②自分が罪人であることを認め、悔い改めたこと、③へりくだった心の姿勢を見ることができます。これが御国に入る条件です。たとえ、犯罪人でも、罪を悔い改め、イエス様の前にへりくだった姿で出るなら、罪の許されないものはないということです。私たちは、いつ死ぬかわかりません。それゆえ常に、この犯罪人、いや私自身も同じように犯罪人であり、十字架にかかるべき存在でしたが、憐れみのゆえに罪が赦された者として、高慢にならないで、謙虚に神のみ前に出る心の姿勢を持ち続けることが大切でしょう。

 イエス様は今も生きておられ、罪人たちのために、「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)と、私達の罪を赦すために、自ら十字架に命を捨てて、とりなし祈っておられる(ヘブル7・25)ゆえに、御子イエス様の血によって、私たちの罪は完全に赦され、完全にきよめられる。ここに救いがあるのです。このほかに罪の赦しと永遠の命、そして真実な愛はないのですから、十字架の福音を固く信じて歩みましょう。
ルカ23:34
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

ヘブル7・25
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

コメント (0) »

この記事にはまだコメントがついていません。

コメント RSS トラックバック URL

コメントをどうぞ

HTML convert time: 0.982 sec. Powered by WordPress ME