復活の事実こそハッピー
マタイによる福音書28章1-10節
今日はイースター、イエス・キリストが復活された記念の日曜日で、クリスマスと共に、全世界でお祝いされていますが、今日は、イエス様の復活がなぜハッピーなのかを2つの面から考えて見ましょう。
第一は、イエス様が死人の中から復活された証拠と事実は何かです。
イエス様が十字架で死なれたのは、金曜日の午後3時頃で(マタイ27:46)、その後、アリマタヤ出身のヨセフがイエス様の遺体を引き取って、ヨセフと二コデモはイエスの遺体に香油を塗り、投薬とアロエを混ぜたものに浸した亜麻布を巻いて遺体を葬りました(ヨハネ19・39~40)。イエスの遺体は、岩を横から掘って造られた新しい墓に納められ(マタイ27:59~60)、大きな石によって墓の入口が塞がれ、翌日には、祭司長やパリサイ人の要望を受けて、総督ピラトは兵士たちをイエスの墓に遣わし、石に封印をして、番をさせました(マタイ27・62~66)。
マタイ27:46
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
ヨハネ19・39~40
19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
マタイ27:59~60
27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。
マタイ27・62~66
27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」
27:65 ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。
27:66 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。
「安息日が終わって、週の初めの日の明け方」(マタイ28:1)すなわち日曜日の早朝に、マグダラのマリヤとイエスの母マリヤとサロメが香料を持って墓に向かいました(マルコ16・1~2)。とても中に入れる状況ではないのに、イエスを愛していたので、そうせずにはいられなかったのです。
墓に行ってみると、墓石が転がされ、御使いがそこに座り、「女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」(マタイ28:5,6)。「はいって見ると、主イエスのからだはなかった。」(ルカ24・3)のです。
マタイ28:1
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
マルコ16・1~2
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
ルカ24・3
24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
そして、イエス様がよみがえられた何よりの証拠は、イエス様ご自身がよみがえられたお姿を、女性達や弟子たち、その他多くの人々に現されたことを聖書は、事実として書き記しています。
第二は、イエス様が死人の中から復活されたということは、私たちにとってどのような意味をもっているのでしょうか。
その1、イエス様の復活は、イエス様が神であったことを示しています。イエスは何度も、自分がよみがえることを予告し、その予告は事実となりました(ローマ1:4)。
世の人々は、世界の四大聖人として、釈迦、孔子、ソクラテス、イエス様の名をあげますが、釈迦も孔子もソクラテスも死んだが、復活しなかった。彼らは聖人と仰がれる偉大な人物であったかもしれませんが、神ではなかった。ただイエス様だけが、死人の中から復活し、神の子であることを公に宣言されたのです。
ローマ1:4
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
その2、Ⅰペテロ1章3~4節で、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」と語るように、その人を新しく生まれさせ、天国を継ぐ者として下さいます。
その3、イエス様の復活は、私たちの救いが確実なものであることを保証しています。
第一コリント15章54-57節を見ますと、イエス様は復活によって、罪に対する刑罰であり、最後の敵である死にも打ち勝った(参照Ⅰコリント15:54,55)。イエス様は、十字架において救いの約束を成就しましたが、復活によってその約束の成就が確実なものであることを保証しました。復活によるイエス様の圧倒的な勝利によって、罪も死もカを失ってしまったのです。
1コリント15:54-57
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
その4、イエス様の復活は、私達を義なる者と認めて下さいます。
キリストが罪に対して勝利を得たように、私たちも罪に対して勝利を与えて下さるばかりか(参照Ⅰコリント15:57)、ローマ4章25節で、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と語っていますように、神様はイエス様を救い主と信じる者を義なる者、一度も罪を犯したことがない者と認めて下さるだけでなく、罪の支配から解放し、新しい命にある歩みを始めることができるようにさせて下さるのです(参照ローマ6:4-9)。
つまり、イエス様の復活には、十字架によって私達の罪の代価が支払われたことを確認する、一種の領収書のような役割があります。
ローマ6:4-9
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
その5、イエス様の復活は私たちに希望を与えてくれます。
ピリピ3章21節で、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」と語るように、キリストの復活によって、人間には、どうしても勝利できない最後で、最大の敵であった死に対する勝利と、その人をイエス様と同じ復活の体、栄光の体に変えて下さいます。
多くの人々は死を恐れていますが、キリストの復活を信じる者は死を恐れません。なぜなら、キリストが死に打ち勝って復活したからです。キリスト者にとって、死が終わりではなく、死は復活の栄光に到達するための、通るべき道にすぎないからです。
イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架にかかられ、死に勝利してよみがえられたことによって、私たちの救いの道が開かれ、天国への道が開かれ、やがてイエスが再臨する時によみがえらされ、イエスと共に永遠に生きることができる望みがあります。このキリストの復活の事実こそ喜び、ハッピーの源泉そのものであり、私達の希望なのです。
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