2008年4月27日 日曜日

父なる神の約束

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分55秒

使徒の働き1章1-11節

 福音書はイエス様の復活と昇天をもって幕を閉じますが、それは肉眼で見ることのできた、イエス様の生涯を描くことが目的だったからです。その続きを記録しているのが、使徒行伝ですが、今日は、復活と昇天と父なる神の約束である聖霊降臨との関係について考えてみましょう。

第一は、復活の意義です。
 マタイ28:11~15にも記されているように、主の復活を作り話とする人々は当時からいました。主と共に生活していた弟子たちでさえ最初は信じることができなかったのです。また、復活後20年ほど経過した時にも、「死者の復活はない」(Ⅰコリント15・12)と言う人々が教会の中にもいました。二千年後の今日、復活を否定する人々もいますが、子供や大人達にゲームなどで、手元のスイッチ一つで死も生も思いのまま、復活は単なるリセットという感覚があるそうで、怖さを感じます。
マタイ28:11-15
28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。
28:14 もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
28:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

Ⅰコリント15・12
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

 しかし4つの福音書はすべて、イエス様の復活の出来事を明確に記しています。中には矛盾したように思える個所もありますが、それは4人が口裏を合わせず、自分が見聞きした情報から正直に書いたからにほかなりません。「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒1:3)とルカは記しています。自分は死んではいないんだという事実を、弟子たちにも他の人々にも悟らせるために、イエス様は目に見える復活のからだとして、はっきりと現われて下さったのです。復活されたイエス様は、今は、聖霊というお方として、私たちのうちに、確かに生きて働いておられます。

第二は、神の国における、昇天の意義です。
 イエス様が次々と神の国のことを語られても、弟子達はイエス様に、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1:6)と尋ねています。弟子達は、バビロンに滅ぼされたイスラエルの国を、イエス様が再興して下さると考えたのです。でも、イエス様が語られた神の国は、この世の国ではありません。
使徒1:6
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

 天地を創造された霊なる神は、本来目に見えるお方ではありません。ただ、神がどういうお方かを示すために、イエス様は「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ2・7)。イエス様は、霊なる神の属性である、どこにでもおられるという遍在性と、いつまでもおられるという永遠性を、一時期放棄されたのです。つまり、神であるイエス様が、私達の目に見えるお方として来られたのです。
ピリピ2・7
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 しかし、「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」(使徒1:9)。昇天は、かぐや姫のように単に天に上ったというのでなく、イエス様が目に見えない本来の姿に戻られたということで、再び遍在性と永遠性をもたれ、父なる神の右の座につかれたのです。今は、天において私達のために執り成しの祈りをして下さっています。またこの地上においても、私達の助け主聖霊として、共にいて下さるのです。
使徒1:9
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

第三は、父の約束である聖霊降臨の意義です。
 復活されたイエス様は弟子たちと一緒にいる時、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1:4)と命じられ、聖霊が私達の助け主として下って来られることを明確に約束され、さらに臆病で小心、そのくせいばりやで、愛のない、誰が一番偉いか、ケンカばかりするような弟子たちでしたが、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、地の果てにまで、わたしの証人となります。」(1:8)と仰せられたみことばが成就したその時から、大胆にキリストを証し、全世界に福音を言い広めていったのは、聖霊による以外にありません。そのように、聖霊は目には見えませんが、イエス様の存在をはっきりと示されるお方です。
使徒1:4
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

使徒1:8
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

聖霊はキリストの御霊ともいいます。今は聖霊時代であり、私達は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)というみことばが成就し、常にイエス様が聖霊というお方として、心の中に住んで働いて下さいます。これは神の恵みであり、父の約束である聖霊降臨と言います。私たちの目には見えませんが、確かに皆さんの心の中に働いておられます。
マタイ28:20
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

第四は、またおいでになるイエスを待つ意義です。
 ところが、彼らが天を見上げていると、白い衣を着た二人の御使いが彼らのそばに立っていて、「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)と告げられました。

 この知らせは、天に帰られたイエス様が、この世の終わりにもう一度地上に来て下さるという約束です。その時こそ、肉眼でイエス様を見ることのできる「再臨の日」であり、神の国がこの地上において実現する日です。イエス様を「顔と顔とを合わせて見ること」(1コリント13:12)ができるこの日を、楽しみに待たない者があるでしょうか。
1コリント13:12
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

イエス様とお会いする日が待ち遠しいですね。私達の罪をきよめて神の国に迎えるために、イエス様は十字架で死んで下さいます。今イエス様は、聖霊によって私達の内に住んで下さっています。そして、イエス様が次に来られる時は、雲に乗って天から迎えに来て下さるのです。私達はこの約束を信じて、いつイエス様がおいで下さっても良いように、互いに愛し合いつつ、信仰生活に励みましょう。

 

2008年4月20日 日曜日

ただ恵みによって

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時00分34秒

エペソ人への手紙2章1-9節

 私は杏の里教会牧師松橋芳一です。今日は、証しメッセージをさせて頂きます。

第一に、イエス・キリストと出会う前の私です。
 私は、1949年7月25日新潟県上越市で生まれました。イエス様と出会う前の私には、喜びも平安もなく、生きがいや人生の目的がわかりませんでした。中学時代から、何のために生まれ、死んだらどこへいくのだろうと考えました。死の恐怖で寝られなかったこともありました。また私は完全な人間になりたい、きよく、正しくありたいなど、人生の真理を求めていましたが、わかりませんでした。

大学時代から寂しさを忘れるためにお酒を飲み、今生きているのだからやりたいこと、楽しいことをすればいい、死ぬ時は死ぬ時と思うようになりました。酒を飲まずにおれない、酒のために仕事をし、「自分で稼いで飲むんだから、人に文句言われる筋合いはない」と、聞く耳を持ちませんでした。しかし自分の好きなことをやればやるほど、心に空しさがつのり、ついには自殺すら考えるようになりました。  

ようやく合格した獣医師を3年で勝手にやめ、調理師になり,それも勝手にやめて,昭和56年10月、特別養護老人ホーム「ナザレ園」に就職し、そこでイエス・キリストと出合ったのが、32歳でした。

第二は、イエス様の臨在に触れたことです。
 私はそれまで何度となく両親から、「あなたは3才で命を失っていても不思議ではなかったのよ」と言われ、私の心の中に、なぜかわかりませんが、「神様は私にふさわしい働きを用意しておられるはず」と思いつつ,職を変えて,ついに「ナザレ園」に就職したのです。それは私の高校時代からの願いでもありました。
私は大人になったら,数学者か福祉施設で働きたいと願っていましたが、父は「妻子を養えるか」の一言であきらめていたからです。
その施設がキリスト教施設とは知りませんでした。私は以前から聖書を読んでみたいという願いがありましたので,スムーズに教会に行きました。何回か教会に行きました時,「あなたは神を信じますか」と牧師に言われ,「はい信じます」と告白しましたら,「では洗礼を受けなさい」と言われ、何が何だか分らず、昭和57年11月26日瓜連キリストの教会牧師K先生より洗礼を受けました。お恥ずかしいことですが,神を信じてはいましたが、真の神を知らず,イエス様の十字架もわからず、罪の悔改めもしませんでした。

そのような私ですから,洗礼を受けても酒飲みの生活でした。そのことを知ってか牧師は,遠回しに説教の中で、私に向かって、お酒を止めるように言うのですが、「何言っているんだ」と耳を傾けず,相変わらずお酒を飲み,寝て暮らす日々でした。しかし翌年の昭和58年5月14日その時もお酒を飲み、寝ていた時、イエス様の臨在に触れ、ただその前で泣き明かすばかりでした。その時から、自分で努力してもやめられなかったお酒から全く解放されました。これはただ神の恵みというほかありません。

第三は、ただ恵みによってです。
その後、私は、聖書の「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)のみ言葉によって、今まで疑問に思っていた人生の目的がはっきりわかり、多くの挫折や失敗をしていた、このような自己中心な罪人にすぎない私のために、イエス様は、十字架で死んで、よみがえられた救い主であることを信じ、罪を悔い改め、すべての罪を赦され、神の子とされ、永遠の命を頂いたことを感謝しています。

第四に、人は、恵みにより、信仰によって救われるということです。
エペソ2章を見ますと、神から離れている者は、みな「この世の流れに従い」「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行な」(エペソ2:2,3)っている者です。こういう状態にある人は、神の言葉にさからい、欲望のおもむくままに満足を求め続けます。かつての私がそうでした。
エペソ2:2,3
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

このように「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」(2:5,6)ることが神のご計画です。罪を知らない神のみ子が、私達の罪のために十字架上で死んで葬られ、3日目によみの力を破って、よみがえられた。これは、私たちがキリスト・イエスにおいて、共によみがえらせられるための唯一の手段であり、キリストを死者の中からよみがえらせたのは、父なる神であり、イエス様は、すべてを父なる神にゆだねられて、救いの業がすべて成就したのです。

そのように、私達が救われたのは、私達の努力の結果ではなく、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないため」(2:8,9)です。つまり、神様は私が何かできるから救ってくれたんじゃない、私が救われたのは、ただ恵みによるのだということです。

今私には人生の目標があります。再びイエス様にお会いするという希望です。そして死の恐れから解放され、全く人生が変えられました。この永遠の生命とイエス様の愛を人々に知って頂きたい。そして、共にその喜びを分かち合いたいと願い、福音を伝えています。

至 キリスト兄弟団上田教会にて

2008年4月15日 火曜日

2008年4月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 23時25分38秒

人は産まれてからしばらくの間は無力な存在で、
両親や周りの人々の愛と助けなくしては生きられません。
その後、成長と共に力をつけ、やがて自立し、力と富を持つようになります。
そしてやがて例外なく、老年期を迎え、そして生命が終わる時が訪れ、
最後には人の手を借りて葬儀を行なってもらうことになります。
人は共に支え合い、共に生きるしかない存在なのです。
社会とはそんな人間の集合体です。
人はよく「人に迷惑をかけるな」と教えますが、
人間とは互いに迷惑をかける中で、
互いに赦しあう存在として生かされているのです。
真の平和とは、自分と隣人を赦し、愛するところから始まります。
あなたの心に真の平和がありますか。お祈り申し上げます。
「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」
(新約聖書 ローマ人への手紙12章18節)

2008年4月13日 日曜日

2008年4月を迎えて

Filed under: 雑記 — 管理人 @ 20時01分17秒

いつも、当Webサイトをご覧いただき有難うございます。
4月を向かえ、私たち教会の辺りも、杏の花が満開になりました。4月からは、入社、進学、入学と新しい門出を迎えられた方も多いことと思われます。また、ご覧下さっている方々に主の祝福、慰めが豊かにありますようにお祈り申し上げます。
5月11日には、私たちの教会の献堂三周年を記念として、コンサートも予定しております。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

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