2008年4月6日 日曜日

不信仰な者への愛

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分48秒

ヨハネの福音書20章24―29節

 今日から、何回か復活されたイエス様と弟子たちの関係から、イエス様の愛がどのようなものかを考えて見ましょう。まず今日は、トマスの言動を取り上げます。トマスは、主を見なかったゆえに主の復活を信じられない不信仰な者でしたが、主はそんな彼さえも愛し、彼が信じられるように導かれたのです。

第一は、一緒にいなかった者への愛です。
 どういう理由かわかりませんが、弟子たちが集まっていた家にトマスはいませんでした。彼は、ラザロの復活記事の直前には「主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言い、また十字架の前夜には「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」(ヨハネ14:5)と言っていますので、彼の性格を推測すると、実直ではあったが、悲観的な性格でもあったようです。救い主だと堅く信じていたイエス様が、十字架で悲惨な最期をとげられたことで意気消沈していたのかもしれません。
ヨハネ11:16
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

ヨハネ14:5
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

私達も、時には孤独になることがあります。また、人に会いたくない、話もしたくない、落ち込んでしまう時もあります。トマスにとって、生きがいであったイエス様が、十字架で死んだことは、大きなショックであり、立ち上がれないほどだったでしょう。
そのような者をも、主は決して見捨てられない。他の福音書には書かれていないこの記事をヨハネがあえて取り上げたのは、そのような者に対するイエス様の特別な愛を示したかったのではないでしょうか。

第二は、不信仰な者への愛です。
 多分その日のことだったと思われますが、トマスと弟子たちが会いました。弟子たちがよみがえられたイエス様を「私たちは主を見た」(ヨハネ20:25)と聞いても、全く信じようとはしませんでした。それどころか、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20:25)と言います。つまり、「みんなのように簡単には信じないぞ」、「単に主を見るだけではなく、自分の指を主の手の釘あとや脇(わき)腹にさし入れてみなければ信じない」という徹底ぶりです。

だがその日から「八日後」(ヨハネ20:26)、つまり一週間後の日曜日、トマスを愛されていたイエス様が、もう一度トマスが弟子たちと一緒にいた所にご自身を現され、トマスの言葉を聞いていたかのように、証拠として、傷のある手と脇を示され、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」(ヨハネ20:27)と言われたのです。トマスは驚いたことでしょう。なぜなら、いきがっていても、本心は、イエス様にお会いしたかったからです。なぜ、トマスの心をイエス様ご存知だったのでしょう。それは人間には出来ません。よく超能力が話題になりますが、この場面は人間の理解を超えた全知・全能なる神であることを示しています。だから、イエス様は対処できたのです。
ヨハネ2025,26,27
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

 その場にいなくても、トマスの言葉を知っておられたイエス様は、現代人の言葉もまた聞いておられます。処女懐胎や復活など信じられない人たちの言葉だけではなく、苦難にあった時、本当に神はおられるのかと不信仰になったり、神様が愛なるお方なら、「なぜ、どうして」という嘆(なげ)き、つぶやきの言葉も主は聞いておられます。そんな不信仰な者であっても、主は愛しておられ、イエス様が救い主であることを信じられるように、時には奇跡的なことをされ、目に見えなくても、確かに今もイエス様は生きておられることを示して下さるのです。

第三は、見ないで信じる者への愛です。
 不信仰なトマスにイエス様は、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と優しくトマスを諭されました。
復活のイエス様に一人だけ会えなかったことで、寂しかったのかもしれないトマスのことを、イエス様は全部ご存じでした。イエス様はトマスを見捨ないどころか、トマスがはっきりと信仰告白ができるように、イエス様自ら近づき、トマスの目の前に立っておられるのを見た時、トマスは、もはや信じないわけには行かなかったのです。周りの弟子達や、女の人達みんなが信じているから私も信じると言ったのではありません。
私達は人に「信じろ」と言われても信じることはできません。しかし、事実と証拠をつきつけられた時、人は2つに別れます。心かたくなにするか、信じ受け入れるかです。信ずる者は幸いです。

実直な性格のトマスは、心から不信仰を悔い改め、イエス様に、あなたこそ「私の主。私の神。」(ヨハネ20:28)と告白したのです。するとイエス様は、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と。これは、トマスへの叱責の言葉というだけでなく、イエス様の昇天後、将来、弟子たちの宣教によって、イエス様を見ずに信じる者たちについての励ましの言葉であり、不信仰な人々を愛する愛から出たものです。
ヨハネ20: 28, 29
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

イエス様は、なかなか信じようとしなかったトマスをも愛して、信じるように導かれました。それは神の愛とイエス様の愛から出たものです。私達も聖霊の力によって、その愛にふれ、信じさせて頂き、キリストを証しする者とされました。今は、肉眼ではイエス様を見ることはできませんが、イエス様のみことばである聖書を素直に信じ、従う者とされ、キリストの愛を人々に伝えましょう。

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