2008年5月25日 日曜日

賜物としての聖霊

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分17秒

使徒の働き 2章36-47節

 聖霊降臨によって、イエス様の宣教を担う教会がこの世界に誕生しました。ペテロの説教を聞いて回心した人々は勧めに従い、イエス・キリストの名によるバプテスマを受け、教会の交わりの中に生きる者となりますが、今日は、神からの賜物としての聖霊について考えてみましょう。

第一は、救いを求める声です。
聖霊に満たされたペテロは、人々の前に堂々と立ち上がり、輝いた顔で「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(2:36)と。ユダヤ人が十字架に処刑したイエスこそが、神が立てられたキリストであると「人々は聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。』」(使徒2::37)と言います。それは、自分たちがイエス様を受け入れずに十字架につけてしまったという罪の自覚と、救いに対する強烈な渇きが湧き起こり、彼らには、もはや救いを求めることへの、何の躊躇もありませんでした。

第二は、悔い改めとバブデスマヘの招きです。
 救いを求める人々の声を聞いたペテロは、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(2:38)と、罪のゆるしを得るためになすべき2つのことを告げています。
使徒2:38
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

その1は、「悔い改め」でした。
ペテロが人々に要求した悔い改めは、イエス様をキリストとして受け入れなかった自分たちの不信仰、反逆の罪を彼らが認め、その姿勢を改めること。そしてイエスを、主なるキリストと信じることでした。
その2は、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受け」ることでした。
 キリストの十字架と復活のみ業が完了し、約束の聖霊が降った今、悔い改めて主イエスを信じるすべての人々は、イエス様の名によるバブテスマを受け、新しく生まれ変わり、教会の交わりの内に生きる者となるのです。
第三は、世界で初めの教会の誕生と4つの基本生活姿勢です。
 聖霊が降って来られたペンテコステの日、1日で三千人ほどの人々が罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によるバプテスマを受けますが、これが世界で初めの教会です。教会は建物ではなく、神ご自身が人々を選び出し、召し集めた群れであり、そこには、2章42節で「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」と語るように、4つの基本生活姿勢が示されています。
 
1つ目は、「使徒たちの教えを堅く守」ることでした(2:42)。
 ここで言う「教え」は、今日では、新約聖書の教えを指していますが、当時では、使徒たちを通して伝えられた主の教えのことです。みことばに飢え渇き、日々の糧としたのです。

2つ目は、「交わり」です。
ここで言う「交わり」とは、「共有」するという意味です。つまり、お互いに与えれているあらゆる祝福を共有することによって、この世では得られない神にある、深い霊的な交わりを共有していたと言えます。

3つ目は、「パンを裂」くことです。
これは46節の「食事をともに」することと区別され、聖餐の「パンを裂」く行為として、特別な意味を現しています。それは、バプテスマにおいて告白したキリスト信仰を繰り返し告白し続ける礼典として重んじられたということです。

4つ目は、「祈り」です。
初代教会の人々は、46節で語るように、「毎日、心を一つにして宮に集まり」祈り会をしたというのです。今で言うなら祈祷会です。そのように祈りを習慣とし、真剣に神に求めて祈りをささげていたということです。
以上の4つは、誕生したばかりの教会が行なっていたことですが、これらは、私達の教会にとっても、最も基本的なキリスト者の証しと言えましょう。私たちは、初代教会のキリスト者の姿をもう一度学ぶ必要があります。それらは聖霊によってなされることは言うまでもありません。

第四は、ペテロは、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)と語りました。その通りに、イエス・キリストを信じバプテスマを受けたすべての人々に、ペンテコステに注がれた同じ聖霊が、賜物として与えられ、その聖霊によって、「毎日救われる人々」が「仲間に加え」られていきましたが、そこに教会成長の3つの鍵があります。

その1、うるわしい交わりの教会だったからです。
「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。」(2:44)とありますように、主にある交わりを聖霊によって与えて下さいました。それは地域、人種、党派を超えてキリストの下に等しく一致した交わりでした。聖霊は、この交わりを教会を通して、地上に実現されたのです。

その2、世間の評判になった教会だからです。
ここでは、「一同の心に恐れが生じ」(2:43)たこと、もう一つは「すべての民に好意を持たれた」(2:47)ということです。この恐れとは、恐怖という意味ではなく、尊敬という言葉に置き換えられます。彼らは敬虔な教会生活と温かい神の愛に根ざした交わりの生活が、周りの人々に好意をもたれ、関心を呼び起こさないではおれないものがあったということです。

その3、主に信任された教会だったからです。
毎日救われる人々が仲間に加えられたのは、特別な方法や方策を行ったとか、熱心に伝道したからとは書いてありません。それも必要ですが、ここで記されているのは、ただ「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(2:47)とあるだけです。つまり「仲間に加えてくださった」のは、「主」の業であり、伝道の主体も、教会成長の主体も、すべて「主」であることを知ることと、主にすべてを任せることが大切です。伝道は、神・主がなさることであって、私達は用いさせて頂くのです。

 このようにして、教会は常に聖霊に導かれて、バプテスマを受けた者たちの心の内に働いて、新しい神の民としての一致と交わりを与え、福音宣教の業がなされ、今日まで受け継がれてきました。それは、イエス様が再臨されるその日まで、受け継がれていくでしょう。なぜなら、それが神様のみ旨であり、神様のご計画だからです。

 ですから、私達も「代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって」、自分にできることを、神から与えられた賜物を十分用いて、「神の栄光を現わし」(1コリント6:20)つつ、証しさせて頂きましょう。
使徒2:43-47
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

2008年5月18日 日曜日

平安と勝利

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分58秒

ヨハネの福音書16章32、33節

中国では大きな地震で、大惨事となりましたが、人生に何が起こるか一寸先は闇です。皆さん、心に真の平安がありますか。
十字架を前にしたイエス様の弟子達への最後の言葉として「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32,33)と語られました。それは十字架と復活による、罪と死に対する絶対的勝利による確信から生じる内的平安と勇気ですが、今日は、主にある平安と勝利について考えてみましょう。

第一に、平安とは何かです。
 「平安」とは、戦いも矛盾も心の葛藤も何もないということではありません。
 もう百年も前のことです。シカゴの弁護士ホラティオ・スパフォードは、四人の子供を連れてフランス船に乗ってヨーロッパに向かった妻から、次のような知らせを受けました。「私だけがひとり助かった」-それは、船が沈没し、四人の子供はみな死に、妻ひとりが助かったという悲痛な電報でした。この知らせを受け取ったスパフォードは、悲しみのどん底に落ちました。しかし、やがて一つの詩を作りました。それが、あの有名な「やすけさは川のごとく」(新聖歌252番)です。
 悲しみの中にも、川のように流れる平安-それは、「わたしの愛の中にとどまれ」(ヨハネ15:9)と言われた、イエス様の内にのみあるのです。
ヨハネ15:9
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

 ポール・トウルニェは「強い人と弱い人」の中で、「人に強い人、弱い人の二種類があるのではない。事実、すべての人は弱い」と言っていますが、社会はどうでしょう。外側を飾って、強さを誇りますが、実際人間は、弱い者です。弱さを認めた時、本当の強さがわかります。本当の強さとは、ポール・トウルニェは、「神との接触から生まれる強さだけが本当の創造的な強さなのだ」と言っています。クリスチャンは、弱いようですが、いざの時には何にも動じない内面的な神から生まれる強さを持っています。
第二に、潔白でも試練はあるということです。
ヨブのことを考えてみましょう。「彼(ヨブ)のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。」(1;1,8,2:3)と神は、ヨブのことを語っています。彼は、神のみ前に全く罪がない、という意味ではなく、神を畏れ、神に従がおうとし、罪に気づいた時には赦しを頂いたのです。
ヨブ1;1,8,2:3
1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
1:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

そのようなヨブでしたが、家族・財産・地位・家畜すべてを失います。そればかりでなく、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物」ができ、彼の妻に「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」と冷たく言われますが、彼は彼女に「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」(ヨブ2:7-9)と記しています。
ヨブ2:7-9
2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

そして3人の友がやってきて、ヨブの変わり果てた姿を見て、泣き、悲しみ、7日間黙って座っているしかないほどでした(2:13)。ヨブは、素直に生まれたことをのろい(3:3,11)、死にたいのに死ねない(3:21)と告白します。これは、信仰が後退したのではなく、立派な信仰でも、思わず「死にたい」と嘆くことが十分あり得るということです。
ヨブ2:13
2:13 こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。

ヨブ3:21
3:21 死を待ち望んでも、死は来ない。それを掘り求めても、隠された宝を掘り求めるのにすぎないとは。

3人の友は、ヨブの現在の苦難は、ヨブの罪の結果だという。人は不信仰ゆえだ、罪ゆえだと言います。確かに罪の場合もありますが、ヨブのように潔白な人が、苦難に合うこともあるのです。しかし、ヨブを苦しめた最大のことは、神への疑問、つまり神に問いかけても、神が答えて下さらない、回答して下さらないことでした。

私達も、苦難の時、「神様が愛ならなぜ、どうしてこんな苦しいところを通るのですか、なぜ教えて下さらないのですか、なぜ黙っておられるのですか」と問いかけずにはおられない時があります。ヨブも「私は、日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、つどいの中に立って助けを叫び求める。」(30:25-28)と、心から泣き、悲しみ、叫びました。心の叫びを神にぶつけたのです。
ヨブ30:25-28
30:25 私は不運な人のために泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい者のために悲しまなかっただろうか。
30:26 私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。
30:27 私のはらわたは、休みなく煮えたぎる。悩みの日が私に立ち向かっている。
30:28 私は、日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、つどいの中に立って助けを叫び求める。

しかし、神は沈黙されていました。私も大切なものを失ったこともあり、人、特にクリスチャンや牧師から「あなたの病気は罪ゆえだ」とか「不信仰だからだ」と言われたことがあります。それもつらく悲しいことですが、それ以上に神から何の応答もない、沈黙されるほどつらく、悲しいことはありません。耐えられないほどでした。

第三に、神の時があり、その時神は、語り掛けて下さるということです。
神は本当に沈黙し、苦難の中に一人放りだされたのでしょうか。神はヨブの潔白を信じておられましたが、ヨブの人間的強さを信じておられたのではありませんでした。神は黙っておられる間も、じっとヨブと三人の友との語らいに耳を傾けておられたのです。それは「主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。」(ヨブ42:7)と語っておられることでわかります。そして、ちょうどよい時に、ヨブに語りかけられたのです。
ヨブ42:7
42:7 さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。

「神が、この私に語りかけて下さった。この私に近づいて下さった」、ヨブにはそれで十分でした。私達もそうです。神様が、特別に私に語りかけ、近づいて下さる。これ以上何を望む必要がありましょう。そこに心の目が開かれたなら、どのような災いがあろうとも乗り越えられます。

第四に、神のまなざしです。
 神様は沈黙をされていましたが、神様の目は離れていませんでした。たえず、愛のまなざしで見ておられたのです。今は苦しく、神は何も答えてくれないかもしれません。しかし、神様は、あなたを見捨てたり、見離したりしたのではなく、そのことを通して、信仰を訓練させておられるのです。事実、ヨブはこの試練を通して忍耐を学びました。人は、なぜ、どうしてという状況の中にあれば、あるほど神は、愛をもって、その人を練られるのです。

ですから、どのようなことがあっても、そこには必ず意味があり、人知をはるかに超えた神様のご計画の中で、私達を活かし、「あなたはわたしのもの」(イザヤ43:1)と言って下さり、すべてを益にして下さる神様を信頼し続けることです。そして神の時があるのです。たとえ、状況が変わらなくとも、それを受け入れ、対処する力、つまり神にある強さが、その人の中に築き上げられ、揺るがない忍耐と御霊の実が与えられるのです。これこそが本物の平安であり、勝利です。
 皆さん、たとえ患難が襲ってきても、耐える力と主にある平安を頂いて、人生を歩ませて頂きましょう。
イザヤ43:1
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

< 本メッセージは、松橋牧師がキリスト兄弟団上田教会で行ったものです>

2008年5月16日 金曜日

2008年5月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 0時13分16秒

子育ての秘訣は何か。それは本音で夫婦が愛し合い、また子供を愛することです。一緒にご飯を食べたり、家族で遊んだり、スキンシップを持ったり、家で仕事をしたりすること。これらは当たり前のことではありますが、なかなか実行されていないのが現実ではないでしょうか。そして、何をやったかが問題ではなく、時間を共有することによって、自然に価値観を共有することが重要です。日本は、結果主義・生産主義となり、プロセスを軽視しているように見えます。あせらず、じっくり、過程における努力をほめてあげることが大切です。そして、失敗したなら、もう一度チャレンジできるように手助けしてあげることが、子供を精神的に成長させるのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
(新約聖書ヨハネによる福音書15章12節)

2008年5月11日 日曜日

瞬きの詩人水野源三の詩の原点

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分20秒

ヨハネの福音書9章1-3節

阪井和夫さんと浜田盟子さんの素晴らしい讃美とお証しを聞かせて頂き感謝でした。今日は、皆様の篤いご支援とご協力により、献堂3周年記念を迎えることができ、心より篤く御礼申し上げます。これからも地域に愛される教会をと願っていますので、今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。しばしの時、みことばを開かせて頂きます。

第一は、人間の不幸の原因は何かです。
 「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見」(ヨハネ9:1)ます。その時、弟子達は「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:2)と尋ねます。
 弟子達は、人間の不幸・悲惨・苦しみの原因を罪と結び付けて考えていたことは明らかです。この盲人もそう言われ続けてきたので、心に傷を負い、「神が愛ならどうして、なぜこのようなことをされるのか」とのろったことでしょう。
日本人にとっても、これはよくわかる考え方です。「親の因果が子に報い」とか、「創世の報い」とか、「先祖のたたり」など、人生の現在の苦しみは、過去の誰かの罪と結びついていると、日本人は昔から考えさせられてきました。いわゆる「因果応報」です。
 人生には、確かに苦しみはあります。それから逃れることはできません。悲しみが一杯、矛盾だらけです。人生と苦しみの問題は、私達のすべてにとって大きな問題です。
ヨハネ9:1,2
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

第二は、神の業が現われるためです。
 苦しみはどうしようもない罪の結果、因果応報、宿命であり、のろいであり、あきらめるしかないというこの世の考えの前に、イエス様の「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)という言葉は革命的です。イエス様は、不幸が全くなくなると言っているのではありません。すべての苦しみを神の恵みの業、救いの業とするというのです。そして、事実、この生まれつきの盲人の目を開かれました。
 ある意味で、人生に苦しみ・痛みの感覚がなかったなら、水野源三さんの詩はできなかったでしょう。そして人々に共感と感動を与えなかったでしょう。苦しみを通して、神を見出し、永遠の命を見出し、新しい仲間を見出し、新しい希望を見出した人が、どれほど多くいることでしょう。苦しい時、悲しい時、痛みの時、イエス様のところに来るなら、喜びと希望が与えられ、神の恵みの業が広がるのです。水野源三さんの詩は、それを証明していると言えます。
ヨハネ9:3
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

第三は、水野源三さんの詩の原点と信仰です。
 隣町坂城の人々に「私達の町の宝」と言われた水野源三さんは、9才で脳性まひとなり、自分の不幸をのろい、いつも死にたいと言い続けていましたが、やがてそれも言えなくなり、手足、口も利かなくなり、寝たっきりとなり、ただ瞬きをするだけとなりましたが、12歳の時、一人の牧師を通して福音に触れ、聖書を読むようになり、やがて絶望から希望の生活へと変えられ、病気になったことが、ただ不幸だと思っていたことが、「神様の栄光を現すためなんだ」という人生に変えられたのです。彼が13歳の時、イエス・キリストを私の罪からの救い主と信じ、洗礼を受けクリスチャンとなります。

 瞬きの詩人と呼ばれるようになったゆえんは、診療所の医師が、源三さんを診療したおり、「はい」という時は目をつぶれと言ったことがヒントになり、その後、お母さんが返事だけでなく、思いを表現させる手段として、50音図を使って一字一字拾うことを思い付き、手足とロの自由を、脳性マヒで奪われてから三十年、五十音表をまばたきで合図して、その詩歌をお母さんに書き記してもらったのが詩集です。詩作を始めたのは、18歳の頃で、47年(1984年)の生涯を終え、天に帰られるまで、4冊ほど詩集を出しています。

第四は、母うめじさんの死とキリストにある「喜びと希望」です。
ロもきけない、手足も動かせない源三さんにとって、母は、唯一の頼りでしたが、神が、遂にそのお母様さえも奪ってしまわれた時、彼は「主よなぜですか/父につづいて/母までも/み国へ召されたのですか/涙があふれて/主よ 主よと/ただ呼ぶだけで/つぎの言葉が/出て来ません/主よあなたも/私と一緒に/泣いてくださるのですか」と叫びますが、ついに、源三さんは、「御言葉の真理が心にしみて、信仰が新たにされました。脳性麻痺になり、何の希望も喜びもなく、ただ植物のように生きる私でしたが、主イエス様の十字架に願わされた真(まこと)の神様の愛と救いに触れ、喜びと希望をもって生きることができるようになりました。日々主を見上げつつ、この喜びと希望を固く保って生きて行きたい、と願っています。・・」と語っています。

十字架の上で贖いの血を流されたイエス様が、日ごとに源三さんと共に歩み、ねんごろに語りかけて下さり、源三さんは全存在を挙げて、証言していますが、これを思う時、耐えがたい苦難を負わされた源三さんは、何という尊い選びの器として用いられた人なのだろう、と思います。すべてのことを益にして下さる生けるまことの神様の存在を、源三さんを通して知ることができます。

 試練を乗り越えた源三さんの、復活を信ずる明るさと、「喜びと希望」がいかに深い忍耐と愛を生み出し、周囲の人々にまで豊かな祝福を注ぎ出す源となり、そこから神の力に支えられ、詩が完成され、それが人々に励ましと共感と感動を与える。それはただ神の恵みによる以外にありません。献堂3周年記念コンサートが、午後2時に開かれますが、そこで水野源三さんの詩を作曲された阪井さんと、それを讃美される浜田さんを通して、源三さんの詩が歌われますが、そこからあふれ流れる神の愛を知って頂ければと願います。
 

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