2008年6月29日 日曜日

サウロのよき理解者

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分19秒

使徒の働き9章26-31節

 先週は、教会を迫害していたサウロが、新しい人に変えられるために、アナニヤが用いられ、サウロはますます心が燃えてイエス様が救い主であることを伝えたので、ダマスコに住むユダヤ人たちはサウロを殺そうと計画します。その時、よき理解者となったのが、バルナバでした。今日は、サウロとバルナバの関係について考えてみましょう。

第一は、バルナバとはどのような人物だったのでしょうか。
バルナバについては、使徒行伝4章36~37節に、①キプロス生まれで、②彼の一族は宗教的公務に携わるレビ人で、③彼の本名は「ヨセフ」で、④「使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれ」(9:36)、⑤「畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」(9:37)とありますように、エルサレム教会の初期からの忠実なメンバーでした。
使徒4:36.37
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

「慰め」と訳される語の本当の意味(原意)は「側(そば)に助けを呼び寄せる」で、バルナバは人々の窮状を見て見ぬふりができず、自ら犠牲を払ってでも人々を助けようと行動する、心の優しい人でした。

第二は、難問にぶつかったサウロです。
 前回の話の続きですが、サウロはタマスコで回心して後まもなく、ガラテヤ1・17を見ますと、アラビヤに行って、足かけ3年そこに滞在し、その後、再びダマスコに行って、イエスこそキリストであると宣教しますが、ユダヤ人達から命をねらわれるようになり(9・23~24)、そこでサウロはダマスコから逃れ、35年頃にエルサレムに上京します。エルサレム教会はキリスト教会の本家本元です。そこにいる使徒たちに自らの信仰を認めてもらうことが、サウロにとって、その後の宣教活動のために必要でした。
ガラテヤ1・17
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。
使徒9・23~24
9:23 多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
9:24 その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。

 「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れてい」(9:26)ました。サウロは若き日にエルサレムで、ユダヤ教を代表する律法学者ガマリエルに弟子入りして学んだ律法学者であり(22・3)、パリサイ派の伝道者として、イエスをキリストと信じる「異端分子」を撲滅することに使命を感じ、エルサレム教会の多くの信者を捕縛して、投獄した張本人であることを(8・1~3)、エルサレム教会の「みなは」知っていましたので、サウロが彼らに受け入れられることは、かなり難しいことでした。
 もし、このままサウロがエルサレム教会の人々に受け入れられなかったら、その後のキリスト教世界はどうなっていたかわかりません。
使徒9:26
9:26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。

使徒22・3
22:3 「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

使徒8・1~4
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

第三は、バルナバのサウロに対する、よき理解と執り成しです。
 「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。」(9:27)とありますように、この危機にあたって、バルナバだけがサウロを信じ、受け入れ、彼の話に理解を示し、サウロを使徒たちに引き合わせ、彼のキリスト信仰が真実であることを彼らに説明したのですから、実に勇気ある愛の業であり、真の友であると同時に、バルナバが、慰めの子と言われた、わけがここにあったと言えます。

「ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた」(9:29)ので、「兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出し」(9:30)ますが、「教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行」(9:31)きました。
このようにして、バルナバの執り成しによって、サウロにはたくさんの仲間、兄弟たちが与えられ、守られることになったのです。
使徒9:29
9:29 そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。

使徒9:31
9:31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。

第四は、31節から、教会の前進の特徴を2つあげることができます。
1、教会の発展または成長に関する4つの要素(9:31)です。
その1、「平安を保ち続けた」とあるように、教会の質的充実です。困難・迫害があっても、キリストにある心の平安があるなら、それは本物です。

その2、「築き上げた」という言葉には、人々を適材適所に使い分けて、組み立て、つなぎ合わせて、目標を完成するという、教会の健全な機能的充実がありました。

その3、「信者の数がふえて行った」とあるように、霊的な増加です。

その4、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり」という句にあるように、宣教の拡大です。
 
2、31節は「こうして」という書き出しで始まっています。つまり、これまでの経過を受け継いで、どうして教会が、このように成長したのかですが、そこには、3つの要因が考えられます。
その1、一致です。直接的には、エルサレムでのサウロの仲間入りが、バルナバの骨折りでうまくいき、良いチームワークが生まれたこと。広い意味では、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ」という互いに異なった宣教的・文化的・地域的背景を持ちながら、そこに形成された諸教会の間に、平安が保ち続けられたのは、「御霊の一致」によるものです。

その2、活発は信徒活動です。福音宣教が、どうしてエルサレムからサマリヤまで進展したのかは、ステパノの殉教の日から「使徒たち以外の者」(8:1)、つまり信徒達が、サマリヤを始め、各方面に「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」(8:4)結果でした。

その3、聖霊の力です。イエス様は「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と約束されましたが、その通りに、教会が広く築き上げられるようになったのは、彼らが聖霊の力に満たされていたことの何よりの証拠です。

こうして教会は、迫害の中にも、互いに受け入れあい、一つとされ、聖霊に励まされて、イエス様による福音が、聖霊を受けた弟子たちによって、さらに伝えられ、たくさんの教会が誕生し、前進し、今日に受け継がれ、そしてイエスの再臨される、その日まで続くでしょう。

 私達も、日本の現実を見る時、「どうして日本だけ・・」と、つぶやいてしまいやすいですが、何も失望する必要はありません。なぜなら、聖霊の力を信頼するならば、日本にも「こうして教会は」と言って恵みを列挙できるほどのみ業が必ずなされるはずだからです。ただ私達に信仰と神に期待する希望が、どれほどあるかです。私達は神に大いに期待し、私達に出来ることを、神に精一杯ささげましょう。

 人は、一人では生きていけません。誰か一人でもいいから自分を受け入れてくれる人がいる時、生きる力がでます。私達は、いつでも、どこででも、イエス様はよき理解者であり、すべてを知り、受け入れて下さる、ただひとりの友です(ヨハネ15:15)。そして、私達は、主にあって、互いに受け入れあうことができる場所、それが教会と言えます。
教会にも人間的な弱さから問題は起きます。しかし、慰め主なる聖霊に満たされた聖徒を用いて、主は問題を解決して下さいます。私達も主の愛に満たされて、愛に生きる者とされましょう。
ヨハネ15:15
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

2008年6月22日 日曜日

神が用いた無名の弟子アナニヤ

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分28秒

使徒の働き9章1-20節

キリスト教の歴史において、最も有名な人物となるサウロのちのパウロの新生にあたり、その手助けをするように、神が選んで派遣されたのが、ダマスコ在住のアナニヤという無名の弟子でした。そのアナニヤを神は、どのように用いられたかを学びましょう。

第一は、迫害者サウロです。
 サウロは、エルサレムに住む、イエス様を信じる人たちを捕まえては迫害し、それだけでは満足せず、他の町へ逃れていった人々をも捕まえて獄に入れるための権限を大祭司から授かると、その手紙を持ってダマスコの近くに来た時、突然、天からの光がサウロを照らしたのです。彼は地に倒れて「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)という声を聞きます。サウロが「主よ。あなたはどなたですか。」(9:5)と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(9:5,6)と、復活のイエス様がサウロに現れたのです。「目は開いていても何も見えな」(9:8)くなったサウロは、「手を引いて、ダマスコへ連れて行」(9:8)かれますが、「彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いも」(9:9)せず、ただ「祈っていま」(9:11)した。
使徒9:4,5,6,8,9
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

第二は、主の律法に忠実なアナニヤです。
 紀元30年頃にエルサレムに誕生した、イエスをキリストと「信じた者の群れ」(4:32)は、32年頃ステパノの殉教に続いて「エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされ」(8・1)、その一部はエルサレムから240キロメートルほど北方にあるダマスコに逃れました。ダマスコは交通の大事なところで、オアシスに恵まれた商業都市として栄え、多くのユダヤ人が住んでいましたが、アナニヤも、迫害を逃れてこの町に来たイエスの弟子の一人で、ユダヤ人であり、「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良い」(22:12)人でした。
使徒4:32
4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

使徒8・1
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

使徒22:12
22:12 すると、律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が、

 イエス・キリストの福音は、「律法の行いによる義」を追求するユダヤ教の限界に打ち勝つものですが、決して主の律法を否定するものではなく(マタイ5・17~20)、神は、主の教えと戒めに忠実な人を重用されるのです。
マタイ5・17~20
5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

第三は、主のみ声を聴くアナニヤです。
 サウロがダマスコの近くで主イエスに出会って、目が見えなくなり、市内の家にいた時に、アナニヤは「主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。「すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」(9:11)と命じます。
 しかしアナニヤは「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」(9:12,13)と答えます。

 パリサイ派の伝道者サウロは、イエスの弟子たちを異端と断定し、「この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るため」(9:2)にダマスコに来たのです。「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」(9:1)近づいてくるサウロを、ダマスコにいるキリスト信者たちは、非常に恐れて、警戒していました。アナニヤが異議を唱えたのも無理はありませんが、そういう中でも、神のしもべは、「王なる神」の命令に忠実に従がうことが大切です。
使徒9:1,2
9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

第四は、神の恵みに生き、イエス様に用いられたアナニヤです。
 イエス様はアナニヤを諭され「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(9:15,16)と告げます。それは、キリスト信者たちを迫害していたサウロがキリスト信者、それも伝道者となり、逆に迫害を受ける者となる。それが主の計画でした。

そこで深い神の御計画を知ったアナニヤは、人のうわさよりも主のお言葉を信じて、サウロの所へと出かけ、家に入り、サウロの上に手を置いて、「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようにな」(9:17,18)リました。

サウロの「目が見えるようになった」のは、単に肉眼のことだけを言っているのではなく、彼の霊の目も開かれたということです。その証拠に勇気と決断によって「彼は立ち上がって」(9:18)、神の前に今までの罪を悔い改め、「罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によって」(2:38)「バプテスマを受け」(9:18)たのです。
使徒2:38
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

使徒9:18
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、

第五は、神のくすしきみわざと真理です。
こうしてクリスチャンサウロが誕生し、全く新しい人へと造り変えられ、ダマスコにいる信徒の交わりに加わり、その後、ダマスコの諸会堂で、イエスは神の子、キリストであることを宣べ伝え始めました。それを聞いた人々は、驚き、うろたえましたが(9:21,22)、ここで、神様は、私達に2つのくすしきみわざと真理を教えています。
使徒9:21,22
9:21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

その1、無名の器でも、神は大いに用いて下さるということです。
 神が一人の人を神の器として用いようとされる時、その者のために、先に選ばれた人を神はお用いになられるということを教えています。史上最大の伝道者パウロの出現にあたって、アナニヤが果たした役割は、特別に大きかったと言えましょう。その当時、サウロに会うためには、相当の勇気を要したはずです。私達も、たとえ自分では大きな働きをなし得ないとしても、主のご計画の中で、どのように豊かに用いられるかわかりません。いつでも、どこでも、どういう形においても、主に用いられやすい状態でありたいものです。

その2、たとえ、頑固で、神に反逆する者でも、神は用いる器に変えて下さるということです。
 「この人は、頑固で、神様を絶対信じない」と思える人でも、やがて神は、変えて下さるという希望があることを教えています。
また、サウロが新しい人として生まれ変わり、神様のために多くの働きをなすために、神様はまずアナニヤを用いられました。アナニヤはサウロにとって「兄弟サウロ」と挨拶した最初の友であり、神の言葉とみ心を伝えてくれた人でした。そのことによってサウロは再び立ち上がることができたのです。皆さんの周りで苦しんでいる人、悩んでいる人、弱っている人を勇気付け、立ち上がらせるために、神様は皆さんの名前をも呼ばれるかもしれません。その時、アナニヤのように、「主よ。ここにおります」(9:10)とお応えできる者でありたいですね。
使徒9:10
9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。

 私達も、無名な器にすぎませんが、人の評価は、パウロのような人を求めるでしょう。しかし、神の評価は、忠実な主の僕を求めています。パウロのような偉大な器の陰には、無名な祈りの器、忠実な僕がいたことを心にとめ、私達に出来ることを、そして、希望をもって忠実に歩ませて頂きましょう。

2008年6月17日 火曜日

2008年6月下旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 22時08分06秒

物がない、仕事がない、お金がないこともつらいことですが、耐えられないことはありません。また、貧困があり、飢餓もあることも事実です。仕事はなく、悩んでいる人もいます。しかし、人間が耐えられない大きな原因は、心の傷です。これは生涯残り、人生を狂わせます。人間の心を傷つけるのは、1、疎外されること、2,孤独、3、孤立でしょう。なぜなら、人は一人では生きられない存在だからです。では、真の心の満たしは何か。人間相互によって得られるのでしょうか。いいえ。人の心を満たし得るもの。それは真の神に立ち返ることです。私達の造り主のもとに帰った時、真の平安が与えられるのです。
今年は、是非、私達を造られた神と出会って下さい。お祈り申し上げます。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(旧約聖書伝道の書3章11節)

2008年6月15日 日曜日

望ましい父親像

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分08秒

エペソ人への手紙6章1-4節

 今日は父の日ですので、望ましい父親像について考えて見ましょう。

第一は、ある父親の告白です。
「百万人の福音」1999年5月号に、数年前の新聞に、父親回復を真剣に考えているある父親の告白が記されていました。
 「運動会や授業参観に出たこともなかった。子供が登校拒否になったのも知らなかった。夜遅く帰って、翌日の客との話題作りのためニュースを見て、新聞を読む。妻がキッチンのカウンター越しに何か話している。中身を聞かず、首だけ振っていたんです。妻がある日、突然背中をたたいた。いつまでもそうして首を振っていればいいでしょう、と。冷たい目でした。家庭でも会社でも、いつも何かを演じていた。目の前にいる人の言うことを聞ける自分ではなかった。なんと乱暴な人間関係を築いてきたのだろう。そう気づきました」と。

 父親が家庭に不在となり、子供の教育を母親まかせにし、父親がその権威の失ったことを嘆くことはあっても、妻や子供との時間を大切にしょうとしない。そういう中で、社会で懸命に働きながらも、妻の声に耳と心を傾け、本気で子供と向き合い、妻や子供との時間を大切することに気づくことが父親回復の第一歩と言えましょう。
 
第二は、望ましい父親としての権威とは何かです。
 昔は、父親と子供が共に仕事をすることによって、人格形成を親から直接学びましたが、現代は、そうはいきません。だからこそ、家庭教育における父親の責任と役割が重要になってきました。そして、より望ましい父親となるためには、父親の権威が必要かつ重要になってきます。
 人を導くためには、どうしてもそれなりの権威がなくてはなりません。教師は教師としての、父は父としての権威があってこそ、強力な指導力を発揮することができます。日本の家庭からは、今、精神的な力としての父親の権威が次第に失われています。では、権威とはどんな内容を指すのでしょうか。

その1、信頼される父親です。
 信頼のないところに教育は成り立ちません。どんなに両親が教育熱心であっても、子供に信頼されないなら、その教育は成功しません。では父親として、子供に信頼されるための条件は何でしょうか。
 それは勤勉であること、仕事に魂を打ち込むことだと思います。仕事への熱心さは子供への無言の教育であり、仕事に励んでいる父親の姿は子供に安心と信頼感を与えると同時に、仕事に励みつつ、わが子に対する深い関心を持つことが必要です。よく、子供は親の後ろ姿を見て育つと言われます。まず父親の生きざまを子供に示すことです。

その2、厳しさのある父親です。
 わが子を叱ったり、時にはむちを与えることもありましょう(ヘブル12:5-11)。子供達は、なれ合い型や物分かり型の父親よりも、「ドンと当たって、ガンとはね返すそんな父親」を、今も子供は求めています。
ヘブル12:5-11
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 子供が中学生ともなれば、反抗したり、わがままな行動を行うようになります。それで親は、心配し、おろおろしてしまいますが、子供の心の底には「愛されたい、頼りたい」という気持ちが、強いのです。
 特に不安定な年ごろともなれば、ただやさしいよしよし型、なれ合い型の父よりも、やはり強くたくましい父へのあこがれが大きいのです。不動の父、頑固で厳しい父、いかめしい父が必要になってきます。
 では、どんな点において厳しくすべきでしょうか。5つあげます。
①善悪のけじめに厳しくすべきです。
 善悪の分別がはっきりしない若者が多くなっているのは、父親に大きな責任があります。何が善で、何が悪かをしっかり教えましょう。
②ルールを守らせることです。
 子供が正当な理由もなく、親や人を馬鹿にしたような言葉やあいさつ、学校や社会のルールを破った時、父親はこれを教え、諭(さと)し、戒(いまし)める(訓戒の意)ことが大切です。
 公衆道徳の教育には父親が一番です。他人への思いやりを教えないことは、子供の将来に大きなキズをつくってしまいます。

③自立性を養うことです。
 現代の多くの親は、子供が勉強に熱心なら、それでいいと思っているようで、勉強のためなら助けの手を惜しまないようです。確かに勉強も大切ですが、もっと大切なことは、社会に貢献できる「自立性」を養うことです。

④豊かな人間性を育てることです。
「私は愛されている」という満足感、「家庭が明るく楽しい」という幸福感は、豊かな人間性を育てる最も大切な条件です。それが心の安定と所属意識を高めます。つまり、自分は「ここにいていいんだ」、「認められているんだ」、存在価値というか「こんな私でも生きていていいんだ、何かの役に立つんだ」と思えることは、その子にとって、自立と勇気と自信につながります。

苦しみ、悲しみ、挫折、失敗を重ねることによって、人は忍耐を学び、品性が練られるのです。そして、物事に打ち勝つだけの気迫や根性、さらに、勇気と自信などの精神が養われます。
 反対に過保護や過干渉な子供は、自分の力で判断し、決断し、実践することができず、完全に自信を失ってしまい、自立心の芽をつんでしまいます。失敗したら気楽にやり直せばいいのです。ちょっとしたことで泣いてしまう人間にしてはいけません。他人に頼ったり、他人のせいにするような甘えっ子にならないよう気をつけたいものです。

 何でも自分から進んでする、自分の行為に対して責任を持つ、難しいことでも途中で投げ出さない、ねばり強く完成する、がまんしたり、自分をコントロールするなどは、一人前の大人になるための欠かせない訓練です。ですから、他人を当てにせず、自分でやりとげられるように、挑戦できるように励まし、援助・手助けしてあげることです。そのためには、子供の考えや自主性、人格を尊重して誉めてあげることです。父親は簡単に助けの手を伸べないで、じっと見守るって上げることです。

⑤自制心を育てることです。
 小さいころから、欲しいものは何でも与えられて育つと、自分の欲望を自制できない人間になってしまい、やがて家庭をも破壊しかねません。
 子供は両親の豊かな愛情によって育ちますが、その愛情はよく節制された愛情です。溺愛は、やがて子供の人生を不幸にします。

第三は、「子どもをおこらせ」る原因は何かです。
「父たち」に対しては、子供を「主の教育と訓戒によって育てなさい」と命じています。つまり親は、子供を自分の所有物と見るのではなく、神から委託された人格者として、その存在を認め、主の啓示されたしつけと戒めに従がって育てることです。「子どもをおこらせ」る原因として、3つ考えられます。
1、物事を正しく認識しないで、自分の感情で判断して子供を叱る場合が考えられます。ただし、怒ると叱るのは違います。怒るのは、感情から出ており、叱るのは、愛から出ています。その見極めが大切です。
2、自分自身が守っていない規準を、子供に要求する場合もあります。
3、人格を無視して、自分の願望を子供によって達成しようしていることが明らかな場合もあります。

 そうではなく、親自身も、神のみことばの真理に基づいく生活を築くところに真の教育があり、子供を自分の願望の達成のために存在するものと考えてはいけません。それは、子供の人生を親が勝手に決め、子供の人生に踏み込んだり、レールをしいてしまうことになります。そうではなく、たとえ、苦難・挫折・失敗があっても、子供の人生は、あくまでその子自身の人生として受け止め、子ども自身が責任を持てるように指導し、協力・手助けしてあげることです。そして、親自身が、身をもって神の栄光を現わすことです。それによって、子供は、「主にあって両親に従い」、信頼し、尊敬するでしょう。

 今日本では、家族に対話がなくなり、生きがいがなくなり、目標が失われ、生きにくい時代になっています。こうした時代の中で、父親がはっきりした使命感を持った生き方、それは金や権力ではなく、広い視野と男としての本当の魅力と思いやり、やさしさと厳しさ、信仰姿勢をもった生き方こそ、子供に残してあげられる大切なものであり、それが、家庭の祝福、社会の祝福となり、財産となるのです。そして、それを築くのは、今しかない大切な仕事、それは代わりのない家庭、夫婦にしかできないと言うことを知って頂き、おとうさんに頑張って頂きたいです。
エペソ6:1-4
6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

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