2008年7月13日 日曜日

愛の実を結ばせる枝

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分30秒

ヨハネの福音書15章1-11節
            
 今日は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神との密接な交わりを通して「愛の実を結ばせる」秘訣について考えてみましょう。

第一は、私達を育てる神様の愛です。
 この個所で、父なる神は「農夫」(15:1)にたとえられています。農夫がぶどうの木を育てるのは、豊かな実を結ばせるためです。だから、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(15:2)。父なる神が無駄な枝や葉をとりのぞかれるのは、実を結ばせるという明確な目的があるからです。
ヨハネ15:1,2
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

 私達の生涯にも様々な苦しみがあり、神の愛を疑いたくなるような時もありますが、それは「もっと多く実を結ぶため」です。もし、神以外のものを神以上に大切にしているなら、神はそれを取り除かれます。私達を心から愛しておられるから、時には厳しいことをなされるのです。

第二は、御子イエスの愛です。
 イエス様がぶどうの木であるなら、私たちキリスト者は「枝」(15:5)です。「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません」(15:4)。重要なのは、枝は木があってこそ存在できるという事実です。主は、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(15:5)。そして、私たちが主につながることも必要ですが、それより前に、主が私たちを愛して、私たちにつながっておられるのです。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選」(15:16)んで下さったゆえ、たとい私たちが主から離れることがあっても、主は私達から離れることは決してありません。
 だから主は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(15:9)と。御子イエス様の愛こそ、枝が実を結ぶための秘訣であり、イエス様につながってこそ、求めるものが与えられ(15:7)、豊かな実を結ぶことが出来るのです。
ヨハネ15:4,5,9
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

第三は、農夫である神様は、私達をイエス様につながらせて、どのような実を豊かに結ばせようとしておられるのでしょうか。
 それは、愛の実です。イエス様につながる時に、私達の中に聖霊が流れ込んできます。聖霊は、イエス様と私達との生きた関係へと導いて下さいます。聖霊の助けがなければ、イエス様につながれて愛されている事も、自分がイエス様につながっていることも分かりません。
 イエス様につながることによって、聖霊は私達を豊かな実を結ぶ者へと導いて下さるのです。 

第四は、神様が私達の人生に豊かな実を結ばせ、永遠の命を維持させるために、15:2で記されていますように、2つのことをなさいます。
その1は、「取り除き」です(15:2)。
 取り除くとは、ギリシャ語で「持ち上げる」という意味で、実を結ばない枝を再び養分を与え、肥やしを与え、日が当たるように邪魔な障害を除き、風通しをよくし、成長させるために、全力で育て上げて下さいます。「もうだめだ、切ってしまおう」(ルカ13:6-9)と言われても、神様は忍耐をもって、なお成長させるために力を注いで下さいます。
ルカ13:6-9
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

 「成長させてくださる神なのです」(1コリント3:7)から、私達がしなければならないことは、成長のために、神のみことばを受け入れる悔いた、砕かれた心をもって歩むことが必要です。そうでないと、さまたげとなります。成熟と豊かな実は、神とその人自身の砕かれた心です。
1コリント3:7
3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

その2は、「刈り込み」です(15:2)。
 刈り込むとは、ギリシャ語で「きよめる」という意味があります。つまり、刈り込みをし、きよめて下さいます。

 まず、私達がキリストにつながることによって、人生の価値観を変革して下さいます。それによって、何が本当に必要でよいことなのかを教えて下さいます。

 次に、人生の優先順位を建て直して下さいます。第一にしなければならないことを第一にするようにさせて下さるのです。

 そして、悪い習慣に手を入れ、成長を妨げている悪い癖や人間関係に刈り込みをして下さいます。

 しかし、神は決して刈り込みを第一にはなさいません。まず、しつかり枝を持ち上げ、枝が幹であるキリストにしっかり結びつき、そこに新しいいのちが豊かに流れるようにし、強くしてから刈り込みをして下さるのです。

なぜ刈り込みをするのでしょうか。それは神に似た、神にふさわしい、きよい器にするために不必要なものを取り除き、刈り込みをして、自分自身と、人に対して多くの実を結ばせるためです。実とは、自分自身に対する御霊の実(ガラテヤ5:22,23)であり、人に対する悔い改めと救霊の実です。それが家庭や社会で実を結び、真の意味で平和を築くことができるのです。
ガラテヤ5:22,23
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

第五は、8節以下から、実生活で証しするために、愛にとどまることによって、神に栄光を帰する生き方の4要素です。

その1は、「多くの実を結」ぶことです(15:8)。
聖書が記している人生の実とは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)です。
しかし、この人生の実は、人の努力で出来るものではありません。幹である神にしっかりつながり、十分にいのちの水を吸い上げている時、自然に結果としてあらわれるものです。「愛、喜び、平安」の根源であられる御方にしっかりとつながって多くの実を結ぶ者となりたいものです。

その2は、私達がキリストの「愛の中にとどま」ることです(ヨハネ15:9)。
人生で、どのような状況の中にあっても、その人が愛にあふれ、喜びにおどり、心に平安が与えられ、人生を輝いて生きているなら、人々は、その人の背後に神がおられることを知り、神に栄光を帰することができるでしょう。

その3、イエス・キリストの「戒めを守」ることです(ヨハネ15:10,12)。
その戒めとは、「愛すること」です。イエス様に単純に従い、単純に愛することです。それは決して重荷とはなりません(マタイ11:29-30)。なぜなら、背負いがいのあるすばらしい重荷だからです。そして実は、イエス様が横にいて全責任を負って下さるからです。また、重荷は、その人にとって、すべて益として下さるからです。私達を、いのちをかけて愛して下さったイエスと一緒に愛のくびきを負う-これは無上の光栄ではないでしょうか。
ヨハネ15:12
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

マタイ11:29-30
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

その4、「喜びが満たされる」(15:11)ことです。
イエス様は、作りものではなく、本物の人生の喜びを私達に与えるために、この世に来られ、教え、死んで下さいました。そしてよみがえって、あなたの心に住んで下さるのです。
 本物の喜びとは、1つ目は、心に注ぎ込まれます。自分の努力によって作り出せるものではありません。キリストの愛を信じ、受け入れ、キリストを通して神と結びつく時、キリストのうちにある喜びが注ぎ込まれて、喜びとなるのです。これは、人に左右されたり、社会・環境・状況に左右されることなく、キリストにあって、常に喜ぶことができます(ピリピ4;4-7)。
                                                                                                                                             
2つ目は、泡のように消えていくものではなく、その人のうちにとどまり、心がそれで満たされる喜びです(ヨハネ15:11)。

3つ目は、十字架と復活の体験が、心の喜びとなるのです。私達もどのような状況の中にあっても、たえず心からあふれる喜びを人々に証したいものです。

 イエス様につながるとは、罪深い私の罪のために十字架で死んで下さるほどに愛して下さったイエス様を信じ、そのイエス様の愛にとどまることです。まず、自分が愛されていることを知り、その愛を日々、感謝して生活する時、聖霊を通して豊かな愛の実を結ばせて下さいます。 まず、私達が愛の実を結び、神様の愛をあらわす者とさせて頂きましょう。
ヨハネ15:8-11
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

ピリピ4;4-7
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

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