十字架上の第一の言葉
ルカの福音書23章32-34節
今日は、十字架とイエス様の最初の言葉を考えてみましょう。
第一に、イエス様は、十字架刑にされたと聖書に記されています。いったい十字架刑とは、どういう刑だったのでしょう。
不思議なことに、聖書は十字架刑のことをあまり詳しく説明していません。それは当時、誰でも実際に見ているので、説明の必要がなかったのですが、現代の私達は、実際見ていませんので、詳しく知る必要があります。
この十字架刑は、古代のカルタゴという国で始まった死刑の方法です。これは生きたまま囚人の手と足に釘を打ちつけてぶら下げておくという、実に残忍な死刑の方法でした。急所を避けているので、囚人は、のたうち回って苦しみながら簡単に死ぬことができずに、何時間も苦しみ続けるのです。
そして普通は、発狂して狂い死にしてもなお十字架からは降ろされず、鳥や野犬に食いちぎられ、腐敗し、白骨化するまでさらされていたと言われています。
あまりにもそれが残酷であったために、当時の征服国であったローマの市民権を持っている者は、十字架につけてはいけないことになりました。異邦人で、しかも極悪な犯罪人、もしくはローマの皇帝に背いた政治犯だけを十字架につけることが許されていました。
刑が決まると、囚人は執行するローマの兵隊たちに渡されます。そしてローマの兵隊たちは、自分の手に渡された死刑囚に対して、どんな残虐な行為をすることも許されていたのです。むしろ、そのように囚人を痛めつけておいてから十字架につけた方が、十字架上での苦しみの時間が長引かずに死ぬことができる、これは慈悲なのだという理屈をつけて、その囚人を傷つけ痛めつけることが習慣になっていたのでした。
「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた」(ルカ23:32-33)のです。
イエス様は「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」(23:35)というののしりにも、何一つののしり返さず、ただ痛みに耐え、やがて、イエス様の口から出た第一の言葉が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)。
何か事件が起きた時に最初に発せられる言葉というのは、その人の本音・本質が出るものです。十字架につくまでにイエス様の心にあったことが、この時に、言葉として吹き出したのだと私は思います。
ルカ23:34,35
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
第二に、イエス様が十字架につけられた理由が二つありました。
1つ目の理由は、「神さまを『父』」と呼んだ」ということです。
ヨハネの福音書5章で、38年間床についたままの人を癒した後、イエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)と言われました。
それを聞いた当時のユダヤ人たちは、イエス様に対して「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」(ヨハネ5:18)と言い、その時からイエス様を殺そうとするようになったと聖書に記しています。
ヨハネ5:17,18
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
神様を父と呼ぶ習慣は、ユダヤ教にはありません。ユダヤ人にとって、神は恐るべきお方であり、「父」と呼ばず、「聖なる方」「全能の神」「万軍の神」と呼んでいました。神様を「天のお父さま」と呼ぶということは、まさに宗教界の大革命だったのです。
イエス様が十字架につけられた二つ目の理由は「赦し」です。赦したがために、イエスは十字架にかけられました。
ゆるしには2つあります。その1、「許可」などで使われる「許」という字で、条件さえそろえば、誰でも許せることが、「許」の「ゆるし」の意味です。
その2、「恩赦」「大赦」「特赦」などで使われる「赦」という字で、絶対に赦してはならないもので、法律で絶対にゆるせない犯人を、特別に赦す時だけ使う言葉なのです。
アウグスティヌスは、「罪」の定義をいくつか挙げていますが、その中の一つに、「罪とは、赦してはならないもののことである」と定義しています。赦していいものは、罪ではないのです。本当の罪とは、絶対に赦してはならないものなのですから、罪を赦すと大問題になります。罪をゆるせば世の中に混乱が起こり、法律は役立たなくなり、無法の社会になるでしょう。ゆるせないから「罪」なのです。
「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」(ヨハネ19:7)。
神の正義を代表するユダヤの律法の社会では、絶対に罪の赦しはありませんでした。旧約聖書の中では絶対に罪は赦されません。赦すためには、痛ましい手続きがなければ、人の罪を赦すことはできません。
ヨハネ19:7
19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
第三に、父なる神の痛ましい手続きです。
神様はひとり子イエス様をこの世に遣わし、十字架につけるという痛ましい手続きによって人の罪を赦しました。その手続きを経なければ、神でさえ罪を赦すことはできないのです。もし罪を赦したら、神様は、正義ではなく不義の神様になってしまいます。
ですから、神様は無条件で罪を赦すということはなさいませんでした。罪は必ず裁かれなければなりません。呪われなければならないのです。それをイエスは赦したのでした。
イエス様の赦しは、仕方なしに、というものではありません。どんな罪人でも、姦淫の現行犯の女性でも、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言うように、出会いがしらに赦しています。
ヨハネ8:11
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
イエス様は、罪状を調べてから赦したわけではありません。明らかな罪人を一言で、会った瞬間にお赦しになっています。
それは、当時の律法の中に生きていたユダヤの宗教家にとっては耐えられないことでした。なぜなら、自分の良心を満足させるために厳しい律法生活をしているのに、それでも自分達は、救われているか、赦されているかわからないというのに、イエス様は石で打ち殺されても文句を言えないような人に、いとも簡単に「あなたの罪は赦されました。」(ルカ5:20)と言われているのです。「何の権威があっておまえは人の罪を赦すのか」と言いたくなるのは彼らにとっては当然のことでした。
そのためにイエス様は裁かれたのです。イエス様が罪を赦すことをされなかったら、裁かれる必要はなかったのです。
ルカ5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
人は、自分が加害者である時には、その罪の痛みがわかりません。被害者になって初めて、罪というものがどんなに恐ろしいものであるかがわかってくるのです。
私達は、神様に対して加害者です。罪に気づかず平気で暮らしています。聖なる神様の御心をどれだけ傷つけているかわかりません。その加害者である私達のために、イエス様は十字架にかかられたのです。
第四に、イエス様による罪の赦しとは、どのような赦しでしょうか。
イエス様は十字架の上で、私達の罪の身代わりとなって死んで下さったゆえに、神は、私達の罪を赦して下さることができるのです。
その1、イザヤ1:18に「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」とあるように、どんな罪も、すべて赦されます。イエス様の十字架上の血の代価は、制限も、限界もないのです。
イザヤ1:18
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
その2、イザヤ44:22に「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。」とあるように、十字架の愛ゆえに、人を完全に赦すことができる赦しです。
イザヤ44:22
44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」
その3、エレミヤ31:34に「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」とあるように、永遠の赦しです。カール・ヒルティは「眠られぬ夜のために」という本の中で、「赦すとは忘れ去ることだ」と言っています。赦すと言っても忘れていないのでは、赦したことにはなりません。赦しとは、すべてを忘れることです。
エレミヤ31:34
31:34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
人の罪を赦すということは、実に難しいことです。あきらめることはできても、赦すことはできません。自分が正しければ正しいほど、赦すことができません。神様は、痛ましい手続きを経ることによって人の罪を赦そうとされました。それが十字架の出来事であり、十字架は、私達の罪の赦しの保証であり、その土台なのです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。この祈りは、彼らばかりでなく、神を神として敬わず、自己中心に生きてきた私達のためでもあります。また、その人を本当に愛し、赦していなければできません。それを成したイエス様は、ただの人ではありませんでした。そのお方を私達は心に迎え入れて歩む時、人を愛し、完全に赦すことができるのです。イエス様の「愛に根ざし、愛に基礎を置いて」(エペソ3:17)歩ませて頂きましょう。
エペソ3:17
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
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