神の愛のうちを歩む人
エペソ人への手紙5章1-5節
エペソ書は3章までが教理的部分で、4章からは実践的部分の冒頭で「召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1)とあり、今日は「愛されている」(5:1)からこそ、「神にならう者」(5:1)として、私達が、どう愛のうちを歩むべきかを学びましょう。
エペソ4:1
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
エペソ5:1
5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
第一に、神様がどんなに私達を愛しておられるか知っていますかです。知るとは、頭で知るのではなく、身をもって体験して知ることです。
5章1節で、「愛されている子どもらしく(口語訳では、「あなたがたは、神に愛されている子供として」)とあります。神様は、私達を本当に愛して下さっています。しかし、私達は神様から愛されているということを、どれくらい実感しているでしょうか。知っているようでも実は、あまり深く知らないのではないでしょうか。神様はいつも「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31:3)と、私達に語っておられます。私達が、神様を忘れている時も、「神様なんていないや」と思っていても、いつも神様は私達を愛して下さっています。また、「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、おささげになりました。」(5:2)とあるように、イエス様ご自身も私達のことをいつも気にかけ、愛して下さっておられるのです。
イザヤ43:4
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
エレミヤ31:3
31:3 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
エペソ5:2
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
その愛は口先だけでなく、何の罪もないイエス様が、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかって、命を投げ出して下さったのです。
それは、私達が罪から自由になり、活き活きと生きるためです。神様は、愛するひとり子のイエス様を十字架に架けるほどに私達を愛して下さっているのです。私達一人一人は、理屈ぬきに、大きな愛で愛されているのです。その事を知って頂きたいのです。
第二に、神様に愛されている子どもとして歩むことです。
「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)と約束していますように、キリスト者はみな、神の子どもです。ちなみにイエス様が、神の子と言われる場合、ヒュイオスという語が用いられ、血のつながった息子という意味で、本当の子ではない者が、神の子としての特権を与えられたのです。元来は罪の中に死んでいた者が、神の愛によって生かされ、永遠の命を与えられ、神の国を受け継ぐ者とされたのです。
ですから、神の子らしく、神様を信頼し、その愛を十分に頂いて、謙遜に従がっていくことが、神様の子としての歩みです。
第三に、キリストを模範として歩むことです。
生まれたばかりの動物の赤ちゃんは、お母さんたちのやっている事を見習って、水を飲んだり、餌を取ったりして生き方を学びます。私達が見習う人は、誰でしょうか。それは、神様です。私達は神様に愛されている神の子どもですから、神の子どもとして、喜んで「神にならう者」(5:1)とされる時、神様に喜ばれる生き方が出来るのです。
といっても、神様は見えないお方なので、私達には、具体的にどうすべきかわかりません。それゆえ父なる神様は、ひとり子イエス様をこの世に遣わして下さり、このキリストの行動を具体的な模範として歩むよう示されたのです。
キリストの生涯は、愛に貫かれ、罪人の友となり、貧しい人々を憐れみ、悪霊に捕らえられている人々を解放なされたのは、神がどのような人々をも愛されていることを明確に示すためでした。そして最後に主は、自発的に、罪のためのいけにえとなって死んで下さいました。このお方を模範とするならば、私たちも人々を愛し、その人のために喜んで犠牲を払う生き方をし、キリストにならう歩みをすることができます。
第四に、愛のうちを歩むとはどういうことかを2つ考えてみましょう。
その1、不品行を避け、言葉に注意することです。
パウロは、5章3,4節で「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」と具体的に指示しています。
やみの世の特徴は、ゆがめられた本能の現れであり、性秩序の乱れがその代表的なものです。パウロがあげている「不品行(ポルネイア)」(5:3)は、「ポルノ」と同じ語から出ており、人の道からはずれた性交渉を指す言葉です。また「どんな汚れも、またむさぼり、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談」(5:3,4)は、ことごとく不純な性欲や肉の欲望から発するもので、そのような行為から遠ざかることはもちろん、「口にすることさえいけません、避けなさい。」と戒めています。そのような行為や会話は、「聖徒にふさわしく」(5:3)ないからです。こうした言動は、ただ単に自分を汚すだけでなく、徐々に自分を欲望の奴隷にしてしまい、ついにはそうした行為を正当化したりします。これは、「偶像礼拝者」(5:5)であり、真実な神の愛のうちを歩く者にとって、有害無益であり、「キリストと神との御国を相続することができません」(5:5)。
エペソ5:5
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
その2、感謝をささげることです。
逆に口にすることは、「感謝」(5:4)をささげることです。神の愛の計画を信じる者は、すべてに感謝できます。愛の神は万事を益にして下さり(ローマ8:28)、たとい迫害を受けることがあっても、主のなされることに間違いないと信じて、神の愛のうちを歩む者は、「私たちを愛してくださった方によって、すべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者」(ローマ8・37)となることができ、喜んで感謝をささげることができるのです。
ローマ8・37
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私達は、無条件で理屈ぬきに、神様から本当に愛されている子どもであることを忘れないで下さい。神様に愛されていることを知り、神様にならって素晴らしい愛のうちを歩む人は、自分が神に愛されていることを知り、自分が愛されているように、隣人をも愛することができます。それを基礎・土台として、キリストを模範とし、聖い人になるために、神様は助け主として聖霊を私達に与えて下さいました。ですから、聖霊の助けを頂くと共に、神様から目を離さないで、感謝をもって愛のうちを歩む者とさせて頂きましょう。
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