イエスの愛のまなざし
ルカの福音書22章54-62節
先週は「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)というペテロの信仰告白を学びましたが、今日は、その後のペテロの歩みを学びましょう。
マタイ16:16
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
第一に、ペテロの否定です。
聖書を読むと何とも悲しい事実が書かれています。ペテロはイエス様をお喜ばせする素晴らしい信仰告白をしたにもかかわらず、取り返しがつかないほどの大失敗をしてしまいます。それはイエス様との最後の食事が終って、オリーブ山に行く途中の出来事で、突然イエス様は、「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。」(マタイ26:31)と言いました。それを聞いたペテロはすかさず、イエス様に「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と心の底から言いました。その時は言う通り、イエス様のためなら命を捨てる覚悟だったでしょう。しかし、イエス様は、ペテロの心が熱してはいるが、弱さをも知っておられ、「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(マタイ26:34)と言われたのですが、ペテロはイエス様のお言葉を否定して、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言い張りました。
マタイ26:31,33,34,35
26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。
第二に、ペテロの裏切りです。
しかし、イスカリオテのユダの裏切りによって、ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられた時、弟子たち「みながイエスを見捨てて、逃げて」(マルコ14:50)しまいましたが、ペテロはなお、大祭司の邸宅に連れていかれたイエス様の後を「遠く離れてついて行」(ルカ22:54)きました。捕えられたイエス様に浴(あ)びせられるあざけりとののしりの声を耳にしながら、ペテロの心はイエス様を慕い、心配する思いと、イエス様を捨てた情けなさと、自分もイエス様のように捕らえられるのではないかという恐れの中で、心が揺れ動いていました。
それでも中庭に焚いてある火の前に座ったペテロでしが、ここで三度、イエス様を裏切ることになるのです。
マルコ14:50
14:50 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
この場面を吟味すると、細かい展開があることに気づきます。最初にペテロに迫ったのは一人の女中で、彼女が告発したのは、「この人も、イエスといっしょにいました」(ルカ22:56)という、ペテロとイエス様との関係で、ペテロは「いいえ、私はあの人を知りません」(ルカ22:57)とイエス様と自分との関係を否定します。
次に男の人がペテロにかけた言葉は、「あなたも、彼らの仲間だ」(ルカ22:58)という、ペテロと仲間の弟子たちとの関係を告発する言葉でしたが、ペテロはこれも「いや、違います」(ルカ22:58)と否定します。
ルカ22:56-58
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。
そして1時間後、三度目に、別の男が「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」(ルカ22:59)と、ガリラヤなまりを指摘され、イエス様の弟子であることを告発されるに及び、ペテロはとうとう「あなたの言うことは私にはわかりません」(ルカ22:60)と、イエス様との関係を三度も否定し、イエス様を裏切ったのです。彼がまだ言い終えないうちに(ルカ22:60)、イエス様が予告したように鶏が鳴いたのです。
ルカ22:59,60
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
第三に、イエス様の眼差しです。
ペテロはハッとして、イエス様の言葉を思い出しました。「ああっ!」と我に返って目を上げると、夜通しの裁判を終え、罪人のように縛られたイエス様が連れられていくお姿が目の前にあり、イエス様が「振り向いてペテロを見つめられ」(ルカ22:61)ました。
ルカ22:61
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
振り返って見つめられたイエス様の眼差しは、「よくもわたしを裏切ったな」という怒りに満ちた目だったでしょうか。それとも「あんな強がりを言っていたのにやっぱりな。思っていた通りだ」というさげすみの目だったでしょうか。または「ペテロ、わたしにはわかっていたよ。わたしはあなたの弱さをとがめることはしないよ」という目だったでしょうか。もちろん最後です。イエス様の愛と赦しと慈愛に満ちたまなざしは、ペテロをとがめることなく、ペテロの心を溶かし、心から悔い改め、主の愛に対して、自分を恥じ、外に出て激しく泣きました(ルカ22:62)。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。
第四は、ペテロの涙です。
ペテロの流したこの涙は、イエス様を裏切った自分の弱さの自覚から生じる涙でした。イエス様を愛する人間的な思いは確かにあったでしょう。しかしそれ以上に、自分可愛さの故に、イエス様と関わることを恐れるペテロ自身の自我が、イエス様を否定させたのです。イエス様の曇りなき愛の眼差しに、そのようなべテロの心は刺されたのです。丸裸の自我たる自己の真実の姿に直面したペテロは、ただすすり泣く以外にありませんでした。ユダのように、失敗で終わるのではなく、失敗を正直に神の前にありのままをさらけ出し、悔い改め、主に立ち返るなら、神は、すべてのことを赦し、きよめて下さいます。ペテロの涙は、自分の弱さを認め、罪深さを認めた涙でもあったのです。その涙を主はぬぐいさって下さいます(イザヤ25:8)。
イザヤ25:8,黙示録7:17
25:8 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。
第五は、なぜ、素晴らしい信仰告白をしたペテロが失敗したのかを学ぶことは、間違いを犯さないためにも重要です。3つあります。1、ペテロは自信満々でした。自分の力に頼る人は、自分は決して間違っていない、自分は絶対大丈夫だと思い込んでいることが多く、「私は決してつまずきません。決して申しません」(マタイ26:33,35)と自信を持って豪語しました。2、自分は他の人より優れていると思い込んでいることが多く、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と、自分を特別視します。3、自分の判断は正しいと思い込み、他の人の言葉に謙虚に耳を傾けようとしないことが多く、ペテロはイエス様の忠告の言葉さえ否定し、3度も裏切ったのです。
これこそ、人間の本質です。人間は自分の都合のいい事は聞きますが、都合の悪い、いやなことは、耳と心を閉ざします。高慢になったり、かっこよく見せようとしたり、大失敗することもあります。しかし、神様の前では飾る必要はなく、ありのままでいいのです。私達の弱さや失敗を赦して下さるイエス様の愛の眼差しに答えるためにも、聖霊の助けを頂き、「砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)をもって、み言葉を謙虚に受け止めることと、誰でも人生に失敗しますが、失敗を恐れず、それをバネにして、その失敗を徹底的に認識し、自己を見つめ、主の前に深く悔い改め、自らをキリストに明け渡して、信仰生活を歩ませて頂きましょう。
詩篇51:17
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
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