2008年9月28日 日曜日

人生の根本問題とイエスとの関係

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分28秒

ヨハネの福音書16章28節
今日は私たちの人生の根本問題について考えてみましょう。
第一は、私たちの人生の根本問題です。
 私達の人生で、学校教育では学べない、特に青春時代に誰もが体験し、疑問に感じ、さまぎまな書物を読んでも、哲学や唯物論や進化論でも、どうしても答えが見いだせない6つの人生の根本問題があります。

その1、神とはどういうお方かです。
私たちの信じる神は、天地万物を創造され、私達をも造られたお方です。「人間が作った神々」か「人間を造った唯一の神」(1テモテ2:5)かです。では、神を信じる根拠、土台は、1,この宇宙と世界の存在、これらは偶然の産物でしょうか。もしすべてが偶然の産物だとするなら、私たちの存在そのものも偶然です。そうするなら、生きる目的・意味、存在価値、自分自身の大切さ、愛する、愛されること、人格そのものが否定されてしまいます。2,歴史的事実です。3、みことばの成就です。それによって、神を知ることができます。
1テモテ2:5
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

その2、どのようにして生まれたかです。母の胎内から生まれたと言いますが、詩篇139:13に「それはあなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」と、人間は、神が創造されたのですから、生きる価値があり、尊いのです。
詩篇139:13
139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

その3、何のために生まれたかです。物質は、人間のために作られています。私達人間は、物質以上です。すべての人には、生きるのに意味と目的があると同時に、そのために賜物が与えられています。

その4、自分の心の内には言い知れぬ暗闇があります。それは罪という暗闇です。
いつも困惑とむなしさが心を覆い、しまいには「死にたい」とさえ思うようになります。自分自身をどんなに見つめようとしても、その正体は底知れぬ闇の中に隠され、自責の念にさいなまれるのです。

その5、どうすれば悪からの誘惑に勝って、きよい生活を送れるかです。
 学生は、学校にいる間は、なんとか悪の誘惑から守られますが、いったん社会に出ると見る見る堕落の道をたどるという例が少なくありません。心から悪を憎み、将来はきよい生活が送れるようにと切望しますが、自分のカではできません。そんな自分の望みとは裏腹に、心の中にあるドロドロとした矛盾が私達にあるのです。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:10,11,23)、私たちは生まれながらにして、罪の性質を持っているのです。
ローマ3:10,11,23
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

その6、死の問題です。死後どこへ行くかです。死んだら終わりなのか。いったい死後の世界はあるのか、霊魂なるものは存在するのか、しょせん人は死んだら、草木が朽ち果ててしまうように一切が無に帰してしまうのではないか……。初めと終わりは、何もこの世界のことだけではありません。私たちにも初めがあり、終わりがあります。私たち人間はお母さんから生まれ、いつの日か必ず死んでいく存在なのです。聖書やキリスト教には、仏教でいう「前世」とか、「輪廻転生」という考え方はありません。つまり、人生はたった一度しかないのです。だったら、自分の好きなように、思い通りに生きようと考える人もいますが、それはつかの間の楽しみにすぎず、むなしさだけが残ります。

第二は、イエスと私たちとの関係です。5つ考えてみましょう。この5つは、私たちでは解決できない人生の根本問題と関わっています。
 イエス様のことが、ヨハネ16:28の「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」というみことばに示されています。イエス様は、①どこから来られたか。神のもとから来られた。②何のために来られたか。1ヨハネ4:9,10を見ますと、私達の罪の身代わりとして、十字架で死ぬためでした。③どこに行くのか。それは父なる神のもとに帰るということです。それをもっと詳しく5つの面で考えてみましょう。
1ヨハネ4:9,10
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

その1、「罪を犯したことがなく」(1ペテロ2:22,ヘブル4:15)「罪を知らない」(2コリント5:21)イエス様が、この地上に人となって来られ、罪からの救いの業をなしとげられ、完成されて父なる神様のもとに帰えられたということです。
 十字架上で、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われたイエス様は、私達の永遠の救いのために必要な、すべてのことを完成されて、天に帰られたのです。罪からの救いと闇に打ち勝つ力と永遠の命は、悔い改めて信じることのほか、何もいりません。すべてが愛の十字架によって成就されました。
1ペテロ2:22
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ヘブル4:15
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ヨハネ19:30
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

その2、天に帰られたイエス様は、今や.天のくらいから地上の私たちに、必要なすべてのよきものを与えて下さるということです(ヨハネ16:23,24)。
 ヨハネ16:23,24で語るように、天におられるイエス様のもとには、恵みと祝福と力が満ち満ち、イエス様を信じる私たちに、聖霊の助けと信仰によって、それを惜しみなく注いで下さいます。
ヨハネ16:23,24
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

その3、人生には、苦難・試練があります。
しかし、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント10:13)。そして、キリストのみ姿へと変えて下さいます。それは、その人を愛するゆえになさることです。

その4、「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)と語るように、キリストは、私達のために死に、よみがえり、今も生きていて執り成して下さっていますから、誰も私達を罪に定めることはできないのです。なぜなら、神が私達を義と認めて下さったゆえに、誰も訴えることはできないのです(ローマ8:30,31,2コリント5:21)。
ローマ8:3031
8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

2コリント5:21
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

その5、死の恐れからの解放です。
魂は、永遠です。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)と語っていますように、イエス様を救い主と信じる人は、永遠の命が与えられ、そうでない人は、永遠の滅びです。
 キリスト者にとって、死は永遠への通過点にすぎないのです.死からよみがえられたイエス様と同じ栄光のからだにやがて変えられるのです(ピリピ3:20,21)。
ピリピ3:20,21
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

人を欺いたこと、虚栄、恨み、わがまま、嫉妬、ごう慢、汚れた思いなど、自らが神の前には一人の罪人であることを認め、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し」(1ヨハネ1:9)、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ」(1ヨハネ1:7)て下さいます。それによって、私たちの人生は根本から変えられ、人生の目的がはっきりします。何のために生きるか。それは神を認め、信じ、神と共に生きる人生こそ、罪赦されたものに与えられる最高で、永遠の喜びなのです。
1ヨハネ1:7,9
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

2008年9月21日 日曜日

イエスの母マリヤが立っていた

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分15秒

ヨハネの福音書19章25-27節

今日は、イエス様が十字架上で語られた第三のみことばを共に考えて見ましょう。

第一に、マリヤとヨハネは立っていたということです(ヨハネ19:25,26)。
 聖書に、母マリヤは十字架のそばに来て立っていた、とあります。私はこの「立っていた」(ヨハネ19:25)という言葉が心に残りました。自分の愛する長男が十字架にかかっているのを、そばに立って見ていたということは、何と気丈な人でしょう。マリヤだけでなく、クロバの妻マリヤやマグダラのマリヤなども立って見ていました。そして、ペテロやヤコブなど、弟子たちは逃げてしまった中で、十字架のそばに立っていたのは、男ではヨハネ一人でした。
ヨハネ19:25,26,27
19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

目をそむけたくなるような悲痛な現実に立っている。普通なら、イエス様の十字架の苦しみを見るだけでも気絶してしまうほどに、十字架は悲惨な現実なのですが、彼らは、そこでイエス様と共に立ち、イエス様と共に苦しみを味わっていたのです。それはイエス様へのひたむきな愛の姿以外ないでしょう。
 
イエス様は、目がかすんで見えないような苦痛の中、マリヤに「女の方。そこに、あなたの息子がいます」(ヨハネ19:26)と言われ、それから、ヨハネに「そこに、あなたの母がいます」(ヨハネ19:27)と言われました。これがイエスの十字架上での第三の言葉です。
 恐らくもう大きな声を出すことができないほど、疲れきっていたイエス様は、やっとの思いでつぶやくように語ったことでしょう。その時からヨハネはマリヤを自分の家に引き取ったと記されています(ヨハネ19:27)。

第二に、イエス様の誕生という不思議な出来事とマリヤの幸福です。
 イエス様の誕生は、ルカの福音書1章26節より記されていますが、
マリヤは、名もない貧しい村に生まれ、たぶん14歳のころであろうと言われていますが、ある時彼女の前に、「御使いガブリエル」(ルカ1:26-28)が、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)と言われます。彼女は「ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込ん」(1:29)でいた時、さらに御使いガブリエルは「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」」(ルカ1:30-,33)と言います。
ルカ1:26-28
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

 しかし、彼女はまだ結婚前であり、いいなずけのヨセフのことも考えて「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」。 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:35,36,37)と言われ、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と言いました。こうして彼女はイエス・キリストを宿したのです。

 イエス様の誕生は、マリヤには説明できない出来事であり、どんなに説明しても、いったい誰が信じるでしょう。しかし、マリヤは信じました。やがて彼女が妊娠したことが夫のヨセフにわかると、彼も大変苦しみ「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイ1:19,20)と告知されたその時、彼はマリヤを妻として迎え入れました。

第三に、マルヤの悲しみです。
 貧しくても、働き者の父ヨセフ、美しく慈しみ深い母マリヤ、長男のイエス様をはじめとして、ヤコブなどの弟や妹たちがいて(マタイ13;55)、イエス様の家族は幸せでした。そのうちヨセフのことは記されていませんのでわかりませんが、子供たちがそばにいることが大きな慰めであったことでしょう。

 そのように、マリヤは一面、幸せな女性でしたが、本当の不幸を経験した女性でもありました。自分の子を「わが子」と呼ぶ、自分の母親を「お母さん」と呼べるということは、当たり前のようですが、実際は非常に幸せなことです。それをしたくてもできない者がいるのです。その中の一人がマリヤでした。

 イエス様がヨハネから洗礼を受けると、そのまま荒野に40日40夜導かれます。そこで試みを受けられ、やがてイエス様は宣教の働きを始められます。  
 マリヤはイエス様が伝道し始めたということを聞き、よいうわさならいいのですが、「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいた」(マルコ3:21)ので、イエスの身内の者たちが「イエスを連れ戻しに出て来」ました。わが子のことで心痛めない親はどこにいるでしょう。
マルコ3:21
3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。

第四に、神様にささげたマリヤです。
イエス様が宣教を始められてから三年半後、とうとうイエス様は、エルサレムで十字架刑に処せられたのですが、今まで何年かの間、母親の直感で不安に思っていたことが現実となったのです。マリヤにとって、イエス様の無残な姿を見せられ、「なぜ、どうしてわが子が」と思ったことでしょう。
 イエス様が十字架につけられ、深く首をうなだれ、目も開けずに耐えている姿を見て、マリヤはそっと「わが子よ……」と呼びかけずにはおられなかったことでしょう。
 するとイエス様は目を開け、マリヤを見、「そこに、あなたの息子がいます」(ヨハネ19:26)と言われましたが、これは、「わたしはもうあなたの子ではありません」という意味です。

 マリヤはイエス様を妊娠した時のことを、そして、生まれて八日目、イエス様を抱いて宮に行った時、シメオンという老預言者が来て、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」(ルカ2:35)と言った日のことを、さらに、イエスが12歳の時、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)とマリヤに向かって言ったことを、彼女は思い出し、「ああ、十字架。この十字架のためにこの子は生まれてきたのだ」とマリヤは悟ったことでしょう。そうでなければその場によよと泣きくずれて、立っておられなかったでしょう。しかし、彼女はじっとイエス様の十字架を見守っていたのです。
ルカ2:35
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

ルカ2:49
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」

 子供は、決して親の所有物ではありません。子供は神様のものです。子供とは、神と人のために役立つようになるまで、私達に教育がゆだねられ、神様が託して下さったのですから、私達は細心の注意をもってしっかりと子供を教育し、神様にお返ししなければならないのです。そのことをマリヤから学ぶべきです。

 マリヤがイエス様を神様に捧げられたように、「子供も私自身もあなたのものです。あなたが私に下さったものをもう一度あなたに捧げます」と神様に捧げるべきでしょう。

第五は、キリストにある交わりです。
 十字架上の第三の言葉は、罪によって破壊していた、神様と人間との和解と共に、人間相互関係回復をも示しています。私達は、十字架を仰ぎ、神の子として頂く時、私達はキリストによって新生し、神のご性質を宿し、愛を頂く者と変えられていくのです。その時、隣人を愛する者となるのです。それは、マリヤとヨハネのごとく、肉親以上に深いかかわりとなるのです。霊における交わりこそ、私達キリスト者にとって大切です。つまり、イエス様の十字架は、神と人、人と人のかけ橋とする働きがあるのです。そこには、霊的なきよさと、真実と愛の交わりであり、永遠に続くキリストにある命の交わりとなるのです。

マリヤは、初め神様にわが子を取られたような気持ちだったでしょう。しかしマリヤは現実をしっかり見つめ、受け止め、対処しました。人生の中で、人間的な考えでは不条理なことがありますが、私達も現実から逃避するのではなく、しっかり受け止め、それを益として下さる神様に目を向けて、信仰をもって歩ませて頂くと共に、自分一人ではなく、多くのキリストにある友があり、背後には祈りがあることを決して忘れないように歩ませて頂きたいものです。それによって、自分自身の品性が練られ、キリストのみ姿に変えられていくことを信じましょう。

2008年9月14日 日曜日

愛の使徒と呼ばれたヨハネ

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分07秒

ヨハネ第一の手紙3章13-24節
 先週学びましたヨハネは、イエス様からあまり嬉しくない雷の子というあだ名を付けられました(マルコ3:17)。短気で自己中心なヨハネでしたが、イエス様に出会ってから、全く変えられた様子を学びましょう。
マルコ3:17
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。

第一に、弟子たちに語られたイエス様です。
 ヨハネは、この地上で宣教が進む中で、先にイエス様が弟子達に告げられた「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎む」(ヨハネ15・19)ことを知っていました。ですから、ヨハネは、教会の長老として、「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」(1ヨハネ3:13)と、彼らを励ましました。
ヨハネ15・19
15:19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 また、ヨハネは、世が彼らを憎むにもかかわらず、決して彼らを憎むことのないようにと、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」(1ヨハネ3・15)という言葉をもって、かたく戒められましたが、この時のヨハネの心には、イエス様が語られた「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5・21、22)というみことばを思い出していたことでしょう。

 このように、使徒ヨハネの心の内には、弟子たちに懇ろにお語り下さるイエス様のお姿が鮮やかに映し出されていました。それ故にヨハネは、自分ではなく、ただ内にいますキリストのお言葉を語ればよかったのです。

第二に、十字架を目撃した唯一の弟子です。
 「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」(1ヨハネ3・15)と言わせる何か理由があるはずです。それは、イエス様がイスカリオテのユダの裏切りによって十字架につけられた時、ヨハネ以外の弟子たちは、みな逃げましたが、ヨハネは十字架のキリストを、間近に目撃した唯一の証人でした。苦難の中にあるイエス様の痛々しいお姿は、ヨハネの心を強く刺し貫いたことでしょう。しかし、そのイエス様の十字架によって、ヨハネは、神の愛を真に悟ったのです。

 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(1ヨハネ3:16)。

これこそがヨハネの信仰告白でもありますから、ヨハネは、互いに命を捨てるほどの愛をもって愛し合うことを、主にあるキリスト者に求めると共に、「私のためにいのちを捨てて下さった」十字架のイエス様に習うことへの証しでもありました。

イエス様の十字架のお苦しみは、全世界の人々の罪の身代わりのためだったのです。ヨハネはイエス様の愛を心に深く刻み込んだゆえに、キリスト者にそれを切願したのです。

 また、ヨハネにとって、十字架の主を仰ぎ、十字架の主に習い、十字架の愛をもって互いに自己を与え合うことこそが、神のみ心にかなった信仰者としての生き方を、全うする道であると語ったのです。

第三に、愛の戒めを命じられたイエス様です。
 ヨハネは、愛の戒めを命じられた主ご自身を、証しする使命に生きた使徒でした。
 
先に、イエス様が律法学者に、最も大切な戒めとして言われた「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』。 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:37-39)という愛の戒めを、ヨハネは心に留めていたことでしょう。
マタイ22:37-39
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

 しかし、ヨハネにとって、イエス様の愛の戒めが本当に分かるには、なお、イエス様の十字架を体験しなければなりませんでした。イエス様は十字架の贖いをもって、ご自分が命じられた愛の戒めを、ヨハネの心の内に刻み込まれたのです。

 このように、ご自分の命をもって、愛の戒めを全うされたイエス様によって、ヨハネはその愛に目覚める使徒となったのです。ヨハネにとっての、終生の使命は、イエス様が命じられた愛の戒めを自らの身をもって実践することとなったのです。

第四に、実生活で神の愛を実践することです。
さらに「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(1ヨハネ3:18)と、具体的に、実生活を通して行いと真実をもって、愛するように教えています。それこそ、神と共に生きる模範を示すこととなるのです。

ヨハネはこのように口を開く度ごとに、「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(1ヨハネ3::23)と語り続けました。いつしか人々はヨハネのことを「愛の使徒」と呼ぶようになったのですが、私達も、口先だけでなく、愛と真実、ことばと行いによって、キリストのよき証し人となりたいものです。そしてヨハネのように、イエス様と交わり、イエス様の十字架を体験し、聖霊に満たされた者として、イエス様の愛に生きる者として歩みましょう。
1ヨハネ3:23
3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

2008年9月7日 日曜日

愛の人に変えられた雷の子

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分32秒

マルコによる福音書3章13-19節

 初代教会で、絶えず「互いに愛し合いなさい」と語りかけた人といえば、ヨハネですが、今日はゼベダイの子で、ガリラヤのかなり富裕な漁師で、イエス様に特別に愛された使徒ヨハネについて学びましょう。

第一に、雷の子とあだ名を付けられたヨハネです。
 12弟子の一人としてヨハネをお立て下さったイエス様は、兄弟のヤコブとヨハネにボアネルゲ、雷の子と名づけます(3:17)。彼らは、漁師で荒くれ者、言葉づかいや態度が荒っぽかったからです。彼らの性格が、寛容で柔和というものから程遠く、短気で激しやすく攻撃的だったことを、聖書から見てみましょう。
マルコ3・17
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。

 マルコ9:33-50で、ある時カペナウムの家で、イエス様と弟子たちは色々とお話をしていました。その時、ヨハネがイエス様に「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました」(マルコ9:38)と言いました。するとイエス様は「やめさせることはありません」(9:39)と答えられ、むしろ「互いに和合して暮らしなさい」(マルコ9:50)と教えています。ヨハネの一本気で、他の人々を受け入れない心の狭い性格がよくわかります。
マルコ9:38,39,50
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
9:39 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
9:50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

またルカ9:51-56で、ある時、イエス様を歓迎しなかったサマリヤ人に、ヤコブと二人で、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9:54)と言ってしまい、イエス様は振り返って彼らをお叱りになりました。短気で、相手に対してすぐさま怒り、争って相手を打ち負かそうとする性格が表れた場面です。
ルカ9:54
9:54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」

 さらに、マルコ10:35-45で、ヨハネとヤコブは非常に「自己中心」で野心家でした。12人の仲間たちとの共同生活の中で、心の内には、いつかイエス様の「栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」(マルコ10:37)と、この事で、他の弟子たちが腹を立てるという、ヨハネたちの人間的な利己心と野心が、この争いを引き起こしたのです。
イエス様はこれら一連のヤコブとヨハネの生まれつきの性質を見抜いて、雷の子とあだ名を付けられたのです。
マルコ10:37
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

第二に、イエス様に愛され、その愛にふれて変えられたヨハネです。
 ヨハネの粗野で気短かな性格のゆえに、イエス様がヨハネを疎んじられたかと言うと違います。それどころか、イエス様にとってヨハネは「イエスが愛しておられた」(ヨハネ13:23)大切な人であったことが、いつも大事な場面で、ペテロやヤコブと同様に、ヨハネについて来るように命じれておられることでわかります。
ヨハネ13・23
13:23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。

マルコ5:35-42で、ある時、会堂司ヤイロの娘が重い病気でなくなりました(マルコ5:35)。その時イエス様は、両親とペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて子供のいるところに行き、少女の手を取って「タリタ、クミ。少女よ。起きなさい。」(マルコ5:41)と言って生き返らせなさったところにいました。
マルコ5:35,41
5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

またマルコ9:2-8で、ある時、3人は高い山に連れて行かれ、その所で光のように白く輝くイエス様のみ姿を目撃しました。

また、ヨハネ13:23-25で、最後の晩餐の席では、イエス様は、ヨハネがご自身の「右側で席に着いて」(ヨハネ13:23)とありますが、口語訳では「み胸に近く席について」と記しています。

またマタイ26:36-46で、イエス様が十字架にかけられる前に、ゲッセマネの園で祈られた時、特別にこの3人を連れて行き、「ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」(マタイ26:38)と、おっしゃられたにもかかわらず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは誘惑に負けて眠ってしまうという失敗もしました。
マタイ26:38
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

でも、雷の子ヨハネヘのイエス様のご愛は、終始変わりませんでした。一方、ヨハネも、決してイエス様から離れようとしませんでした。主が捕らえられ、弟子たちが逃げた中、そして惨めなイエス様のお姿を見ながらも、己を捨て、イエス様を信頼しきって、十字架の側に踏み留まり、イエス様のお言葉に従ってイエス様の母マリヤを引き取ったことが記されています(ヨハネ19・25~27)。
ヨハネ19・25~27
19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 このように、イエス様は、荒削りのヨハネを受け入れ、愛し、ヨハネもまた主を慕い、愛し、主と共なる愛の交わりは、雷の子ヨハネが、やがて愛の使徒に変えられる上での大きな下地となったのです。

第三に、愛の人に変えられたヨハネです。
 聖霊降臨の後、ヨハネは初代救会の指導者として存分に働くと共に(使徒3、4章)、神の霊感を受けてヨハネの書簡集をも書き記しています(Ⅱテモテ3:16)。その書簡の中で顕著なことは、愛についての記述が非常に多く、ヨハネは繰り返し「愛する者たち」(Ⅰヨハネ2:7)と呼びかけ、「互いに愛し合う」よう教えています。(ヨハネ13:34)。
Ⅱテモテ3:16
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

Ⅰヨハネ2:7
2:7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。

ヨハネ13:34
13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 これら愛に満ちた手紙を読むと、これが雷の子と呼ばれた粗野な人物によって記されたとは、到底考えられません。手紙というものが、筆者の人格を映す鏡のようなものだとするならば、ヨハネの書簡はまさしく、愛の人として造りかえられたヨハネ自身の人格を、鮮やかに映し出していると言えます。

 ここで3つのことわかります。1、人間は誰も完全な人はいません。誰でもよくない性格・性質・欠点・短所を持っているということです。2、だからと言って失望・落胆する必要はないということです。なぜなら、たとえ今は粗野で、問題があったとしても、神様はその人を造り変えて下さることを証明していると言えます。3、丸ごとその人を受け入れる愛と、人間を造られた創造主のもとに帰るなら、人は変えられるということです。そのために、助け主なる聖霊がおられることを忘れてはなりません。どのような人でもキリストにあって変えられます(Ⅱコリント5:17)。
Ⅱコリント5:17
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 このように、ヨハネは主の召命を受けて以来、弟子として主に従い、十字架と復活、ペンテコステを経験し、使徒として歩む中、聖霊によって愛の人に変えられ、キリストの愛を証する器として豊かに用いられたのです。

 ボアネルゲ、雷の子ヨハネは、生来粗削りの者でしたが、キリストと出会って愛され、共に生活するうちに感化を受け、聖霊によって、キリストの愛に満たされ、試練と失敗を繰り返しながらも、すばらしい主の弟子として、愛の使徒へと造り変えられていきました。聖霊は私たちの内にも、同じく働いて下さることを信じ歩みましょう。

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