2008年8月24日 日曜日

ペテロの信仰告白

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分03秒

マタイの福音書16章13-20節
            
 今回から、しばらく、前回まで学んだ御霊の実が、主の弟子たち三人の中にどのように結ばれたかを考えましょう。まず、ペテロですが、漁師をしていた彼は、決して博学な人物ではありませんでしたが、主と共に歩んでいく中で、偉大な信仰告白をしています。今日は、そのことを学びましょう。

第一に、イエス様の質問に対する人間の考えです。
イエス様と弟子たちが神様のことを伝えながら、ヘルモン山のふもとの町ビリボ・カイザリヤまでやってきた時のことです。すでに弟子たちはイエス様と共に行動するようになってから2年近くが経(た)っていましたが、イエス様は弟子たちにこんな質問をなさいました。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」(16:13)と。人の子とはイエス様のことですが、弟子たちは口々に「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」(16:14)と答えました。
人々は、エレミヤをメシヤの先駆者と考え、ある者はイエスを偉大な預言者の一人だと考えていましたが、メシヤとは考えていませんでした。
マタイ16:13,14
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

第二に、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」です。
皆さんはイエス・キリストという名の意味をご存知でしょうが、イエスというのはギリシャ語の名前で、ヘプル語のヨシュア(救い主)からきています。キリストは職名で、ヘプル語のメシヤ(油注がれた者)からきています。
 ここでイエス様は弟子たちに、それでは、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(16:15)と尋ねられると、ペテロは、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16:16)と答えました。
ペテロはイエス様に従って生活するようになって経験した多くの出来事から、イエス様こそ、神の子であり、キリストであると信じるようになっていたのです。そして、いつかは死んでしまう人間ではなく、永遠に生きておられる神の子であり、メシヤの先駆けではなくメシヤ(=キリスト)ご自身だという、明確な信仰告白をしたのです。
マタイ16:15,16
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

また、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16:16)という信仰告白は、代々の教会の共通基盤です。イエス・キリストは、人間としてこの地上にお生まれ下さいましたが、確かに神の子でした。そしてこのお方は今も生きておられます。この信仰がなくては、教会はすぐにでも崩壊してしまいます。イエス様は神の子であり、今も生きておられるからこそ、罪人の罪は赦され、聖い者として歩むことができるのです。ペテロのこの告白に対して主は、「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(16:17)と言われました。
マタイ16:17
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

第三に、ペテロの信仰告白の根拠です。
イエス様は、ペテロがこの信仰告白をすることができたのは、彼の理解力がすぐれていたからではなく、父なる神がそのことを彼に示して下さったからであると付け加えています。イエス様がメシヤであることは、父なる神の啓示によらなければ知ることができません。そして、この啓示を信じて受け入れなければ、イエスをキリストであると告白することはできません。律法学者やパリサイ人、それに一般民衆も、神からの啓示を信仰を持って受け入れなかったので、イエスについて、サタンの仲間だとか、バプテスマのヨハネ、預言者の一人などと、人間的な憶測によって、いろいろと取りざたしたのです。

 現代でも同じような情況が見られます。イエスを偉大な宗教的指導者の一人と見る人々もいれば、当時の体制に反対し、社会変革を企てた革命家であると見る者もいます。また、道徳的教師、スーパースターと見る者さえいます。それぞれが人間的な観点からイエスを見て、「ああでもない、こうでもない」と言っているのです。

しかし、そのような観点からイエス様を見る限り、イエス様の真の姿を知ることはできません。二千年のキリスト教の歴史を支えてきたものは何か。それは、イエス様をキリストであると告白する信仰以外の何ものでもないのです。そして、そのような信仰は人間が考え出したものではなく、神から与えられたもので、聖書は、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)と述べています。私達がイエスをキリストと告白できるのは、父なる神が私たちの心の中に働いて下さる聖霊の働きによるのです。この聖霊の働きを否定するなら、イエスをキリストと信仰告白できません。聖霊の働きに心を閉ざした律法学者やパリサイ人の態度が、そのことを如実に物語っています。イエス様がペテロに幸いだと言ったように、この信仰告白をする者こそ、真の幸福を得るのです。
 イエス様は今も、私たち一人一人に対して、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(16:15)と問いかけています。皆さんはこの問に対して、何と答えますか。
Ⅰコリント12:3
12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

第四に、教会の基盤は、信仰告白の上に建っているということです。ここで4つのことを知ることができます。
その1、主は「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(16:18)と仰せられました。「この岩」とは原語でベトラ(=岩盤)という意味で、教会は、カトリック教会が解釈するように、ペテロという個人の上に建てられているのではなく、彼の信仰告白の上に建てられているのです。

その2、イエス様は「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(16:18)。つまり「その教会は、死の力にも打ち勝ちます」と言われ、やがて十字架の後、復活されて死に勝利することを宣言されたのです。「ハデスの門」は死人の住む所の城門のことであり、死のカを意味しています。つまり、キリストの教会は、罪の刑罰である死の力にも打ち勝つことができるのです。なぜなら、教会のかしらであるキリストは、罪の贖いを成し遂げ、死を打ち破って復活したからです。教会は永遠に勝利をその手にするのです。二千年に及ぶ教会の歴史は、あらゆる迫害や弾圧にも打ち勝って、このことばが正しいことを実証しています。

その3、「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(16:19)とも語っています。これはペテロだけに与えられた特権でなく、他の弟子たちにも、また「イエスはキリストである」と告白する、すべての人にも与えられる特権です。教会には、「ハデスの門」を開く「天の御国のかぎ」(16:19)を主から委ねられていることを自覚して、福音宣教を行う必要があります。

その4、最後にイエス様は、「ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められ」(16:20)ました。それは、イエス様は旧約聖書に預言されたメシヤ(救い主)として、この地上に来られました。その目的は十字架にかかり罪のいけにえとなって、救いの道を完成するためでした。しかし、当時の人々は救い主が現れたらローマ帝国を滅ぼし、自分たちを自由にしてくれると思っていましたが、イエス様の目的は全然違うので、誤解されないように口止めされたのです。
マタイ16:18-20
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。

イエスはここで、1、教会の基礎としての信仰告白、2、あらゆるものに対する教会の勝利、3、神によって与えられた教会の権限について語っていますが、これらのことはベンチコステの時に教会が発足して実現していくのですが、イエスはすでにそのことをここで予告しているのです。私達も、イエス様を神の子と告白し、与えられた使命を、聖霊の力によってさせて頂きましょう。

2008年8月10日 日曜日

御霊に満たされて歩む

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分07秒

エペソ人への手紙5章15-21節
             
 キリスト者の具体的な「歩み」として、「召しにふさわしく歩む」ことについて、エペソ5章から、第一回目は、「愛のうちを歩む」、第二回目は、「光の子として歩む」ことを学びましたが、今日は最終回として、「御霊に満たされ」(エペソ5:18)て歩む生活について学びましょう。良い歩みは、あくまでも聖霊が結ばせて下さる実であって、人間の努力によってできることではないからです。聖霊に満たされる時、私達は知識、感情、意志のすべてにおいて整えられ、豊かな実を結ぶことができるのです。

第一に、歩き方に注意しよう
 私たちが何も自分で注意しないで生活していると、知らず知らずのうちに、闇の中に入ってしまうことがあります。もう一度、闇の中の生活について見てみましょう。それは、5~6節に「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」と記されています。つまり神様以外のものを神様として拝んだりする人は、真っ暗な闇の中で生活しているのです。
 特に、今の時代は、「悪い時代だから」(5:16)こそ、「よくよく注意し」(5:15)て日々の生活を歩むことが大切です。
エペソ5:15,16
5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。

第二に、賢い者のように歩む、それは、神様の御旨を悟ることです。
 旧約聖書の箴言1章7節に「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」とありますが、この意味は、神を敬い、神の意志に服従することであり、知識とは、神の真理を正しく理解することです。また、知恵とは、単なる知識を指すのではなく、神に喜ばれる生活をするための実際的判断力を指します。ヤコブも、3章13~18節で、「上からの知恵は」、神の知恵であり、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせ」(ヤコブ3:17,18)ますが、「地に属し、肉に属し、悪霊に属する知恵は、ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないが」(ヤコブ3:15,16)伴い、真理にさからっていると言っています。
ヤコブ3:13-18
3:13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。
3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
3:15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
3:16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。
3:17 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

 ここでパウロが言う「賢い人のように歩」(5:15)むとは、学識ある者になれとか、聡明になれとかいう意味ではなく、「神にならう者」として生きることであり(5:1)、「キリストの福音にふさわしく生活」(ピリピ1:27)することです。そのためには、「機会を十分に生かして用い」「主のみこころは何であるかを、よく悟り」「御霊に満たされ」ることが大切です(5:16-18)。主とはイエス様のことですから、「イエス様が何を望んでおられるのかを知るように」とパウロは勧めているのです。それは、聖書に記されているイエス様の言動を知ることによってわかります。聖霊は理性を否定なさいません。むしろ、私達が聖書を読む時、それを正しく理解する力を与えて下さるのです。 
エペソ5:1,17,18
5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

ピリピ1:27
1:27 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、

第三に、「御霊に満たされて」です。
 イエス様に喜ばれる賢い者の生活は、自分で頑張っても出来ません。かえって、自分が頑張れば、頑張るほど出来なくなって、かえって空回りして、気持ちが暗くなってしまいます。賢い者としての生活の秘訣は、御霊に満たされることです。御霊は、いつも、どこでも皆さんと共にいて下さいます。また、イエス様を罪からの救い主と信じる皆さんの内にもいて下さいます。そして、皆さんに力を与えて、イエス様に喜ばれる生活が出来るように助けて下さいます。

次にパウロは、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(5:18)と命じています。キリスト者は酒を飲まなくても楽しいです。なぜなら、御霊に満たされると、嬉しくなり喜びが心からあふれてくるからです。聖霊は私たちの感情に働かれ、「詩と賛美と霊の歌」(5:19)が口から出てくると同時に、「互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美」(5:19)を神様にささげることができるのです。
エペソ5:19
5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。

第四に、意志の決断によって、互いに仕え合うことです。
 賛美は、ただ感情的に高める(高揚する=こうよう)ためだけでなく、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝」(5:20)することが大切であり、賛美をするのは、感謝があるからです。しかも「いつでも、すべてのことについて」感謝するためには、意志的な決断が必要です。神が「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8・28)ことを信じなければ、そのような感謝は生まれません。御霊に満たされる時にはじめて、すべてに感謝できるようになるのです。
エペソ5:20
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

ローマ8・28
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 感謝があると、「キリストを恐れ尊んで、互いに従」(5:21)うこともできるようになります。弟子たちの足を洗われたキリストを恐れ敬い、尊ぶなら、謙遜に、しかも感謝をもって仕えることができるはずです。御霊に満たされるなら、キリストの思いが心いっぱいに広がるからです。しかし、これにも意志的な決断が不可欠です。
エペソ5:21
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

 信仰には、意志が大きく関わっています。キリストを救い主と信じるのは意志的な決断であり、イエス様に従っていこうとするのも、聖霊が共にいて下さると信じるのも、自分の意志によることですが、その決断ができるように、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださ」(ピリピ2:13)います。御霊は、私たちが自分の意志で決断するのを助け導いて下さるお方なのです。
ピリピ2:13
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

第五に、クリスチャンの行動原理は、自分の存在を明確にすることです。
 私たちクリスチャンの行動原理は、神のみこころであり、神の栄光を現すことができるかどうかが行動の基準です。イエス様が人間となられた(受肉=インカネーション)目的は、父のみこころを行うことでした。イエス様は、「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:34)と明言しておられるように、私達も、自分の存在の目的を明確にしなければなりません。
ヨハネ4:34
4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 当時も「悪い時代」(5:16)であったと記されていますが、現代もまた邪悪な時代です。そのうえ、神の救いの計画が進められ、「主の日/再臨の日」が着々と近付いています。科学者の見地からも、地球人類の終末が論じられています。したがって、私たちは残された機会を生かして用い、主のみこころを実践しなければなりません。そのために、私たちは常に御霊に満たされ、主に礼拝をささげ、奉仕に携わる生活をするように勧められています。御霊に満たされるということは、私たちの霊と体が、全く御霊の支配のもとに置かれ、しかも常にそのような状態にあることです。そして、日々昼も夜も、主に向かって心から歌い、賛美する生活を送ることが大切です。これこそ、主にある賢い人の生き方です。

 3回にわたって、神に召された者としてふさわしい歩みとは、何かを学んできましたが、結論として言えることは、己に死んで、御霊に自分の意志を明け渡して従って歩む日々こそがその基本ということです。その時、御霊の実は豊かに結ばれていきます。これを理解し、賢い者として、いつもイエス様を信じて従い、天の父なる神様に祈り、御霊に満たされて歩んで行きましょう。

2008年7月27日 日曜日

神の愛のうちを歩む人

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分22秒

エペソ人への手紙5章1-5節

 エペソ書は3章までが教理的部分で、4章からは実践的部分の冒頭で「召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1)とあり、今日は「愛されている」(5:1)からこそ、「神にならう者」(5:1)として、私達が、どう愛のうちを歩むべきかを学びましょう。
エペソ4:1
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

エペソ5:1
5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

第一に、神様がどんなに私達を愛しておられるか知っていますかです。知るとは、頭で知るのではなく、身をもって体験して知ることです。
5章1節で、「愛されている子どもらしく(口語訳では、「あなたがたは、神に愛されている子供として」)とあります。神様は、私達を本当に愛して下さっています。しかし、私達は神様から愛されているということを、どれくらい実感しているでしょうか。知っているようでも実は、あまり深く知らないのではないでしょうか。神様はいつも「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31:3)と、私達に語っておられます。私達が、神様を忘れている時も、「神様なんていないや」と思っていても、いつも神様は私達を愛して下さっています。また、「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、おささげになりました。」(5:2)とあるように、イエス様ご自身も私達のことをいつも気にかけ、愛して下さっておられるのです。
イザヤ43:4
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

エレミヤ31:3
31:3 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
エペソ5:2
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

 その愛は口先だけでなく、何の罪もないイエス様が、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかって、命を投げ出して下さったのです。
 それは、私達が罪から自由になり、活き活きと生きるためです。神様は、愛するひとり子のイエス様を十字架に架けるほどに私達を愛して下さっているのです。私達一人一人は、理屈ぬきに、大きな愛で愛されているのです。その事を知って頂きたいのです。

第二に、神様に愛されている子どもとして歩むことです。
 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)と約束していますように、キリスト者はみな、神の子どもです。ちなみにイエス様が、神の子と言われる場合、ヒュイオスという語が用いられ、血のつながった息子という意味で、本当の子ではない者が、神の子としての特権を与えられたのです。元来は罪の中に死んでいた者が、神の愛によって生かされ、永遠の命を与えられ、神の国を受け継ぐ者とされたのです。
 ですから、神の子らしく、神様を信頼し、その愛を十分に頂いて、謙遜に従がっていくことが、神様の子としての歩みです。

第三に、キリストを模範として歩むことです。
生まれたばかりの動物の赤ちゃんは、お母さんたちのやっている事を見習って、水を飲んだり、餌を取ったりして生き方を学びます。私達が見習う人は、誰でしょうか。それは、神様です。私達は神様に愛されている神の子どもですから、神の子どもとして、喜んで「神にならう者」(5:1)とされる時、神様に喜ばれる生き方が出来るのです。

といっても、神様は見えないお方なので、私達には、具体的にどうすべきかわかりません。それゆえ父なる神様は、ひとり子イエス様をこの世に遣わして下さり、このキリストの行動を具体的な模範として歩むよう示されたのです。
 キリストの生涯は、愛に貫かれ、罪人の友となり、貧しい人々を憐れみ、悪霊に捕らえられている人々を解放なされたのは、神がどのような人々をも愛されていることを明確に示すためでした。そして最後に主は、自発的に、罪のためのいけにえとなって死んで下さいました。このお方を模範とするならば、私たちも人々を愛し、その人のために喜んで犠牲を払う生き方をし、キリストにならう歩みをすることができます。
第四に、愛のうちを歩むとはどういうことかを2つ考えてみましょう。
その1、不品行を避け、言葉に注意することです。
パウロは、5章3,4節で「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」と具体的に指示しています。

 やみの世の特徴は、ゆがめられた本能の現れであり、性秩序の乱れがその代表的なものです。パウロがあげている「不品行(ポルネイア)」(5:3)は、「ポルノ」と同じ語から出ており、人の道からはずれた性交渉を指す言葉です。また「どんな汚れも、またむさぼり、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談」(5:3,4)は、ことごとく不純な性欲や肉の欲望から発するもので、そのような行為から遠ざかることはもちろん、「口にすることさえいけません、避けなさい。」と戒めています。そのような行為や会話は、「聖徒にふさわしく」(5:3)ないからです。こうした言動は、ただ単に自分を汚すだけでなく、徐々に自分を欲望の奴隷にしてしまい、ついにはそうした行為を正当化したりします。これは、「偶像礼拝者」(5:5)であり、真実な神の愛のうちを歩く者にとって、有害無益であり、「キリストと神との御国を相続することができません」(5:5)。
エペソ5:5
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

その2、感謝をささげることです。
 逆に口にすることは、「感謝」(5:4)をささげることです。神の愛の計画を信じる者は、すべてに感謝できます。愛の神は万事を益にして下さり(ローマ8:28)、たとい迫害を受けることがあっても、主のなされることに間違いないと信じて、神の愛のうちを歩む者は、「私たちを愛してくださった方によって、すべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者」(ローマ8・37)となることができ、喜んで感謝をささげることができるのです。
ローマ8・37
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私達は、無条件で理屈ぬきに、神様から本当に愛されている子どもであることを忘れないで下さい。神様に愛されていることを知り、神様にならって素晴らしい愛のうちを歩む人は、自分が神に愛されていることを知り、自分が愛されているように、隣人をも愛することができます。それを基礎・土台として、キリストを模範とし、聖い人になるために、神様は助け主として聖霊を私達に与えて下さいました。ですから、聖霊の助けを頂くと共に、神様から目を離さないで、感謝をもって愛のうちを歩む者とさせて頂きましょう。

2008年7月20日 日曜日

十字架上の第一の言葉

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分44秒

ルカの福音書23章32-34節
今日は、十字架とイエス様の最初の言葉を考えてみましょう。

第一に、イエス様は、十字架刑にされたと聖書に記されています。いったい十字架刑とは、どういう刑だったのでしょう。
 不思議なことに、聖書は十字架刑のことをあまり詳しく説明していません。それは当時、誰でも実際に見ているので、説明の必要がなかったのですが、現代の私達は、実際見ていませんので、詳しく知る必要があります。
この十字架刑は、古代のカルタゴという国で始まった死刑の方法です。これは生きたまま囚人の手と足に釘を打ちつけてぶら下げておくという、実に残忍な死刑の方法でした。急所を避けているので、囚人は、のたうち回って苦しみながら簡単に死ぬことができずに、何時間も苦しみ続けるのです。

 そして普通は、発狂して狂い死にしてもなお十字架からは降ろされず、鳥や野犬に食いちぎられ、腐敗し、白骨化するまでさらされていたと言われています。
 あまりにもそれが残酷であったために、当時の征服国であったローマの市民権を持っている者は、十字架につけてはいけないことになりました。異邦人で、しかも極悪な犯罪人、もしくはローマの皇帝に背いた政治犯だけを十字架につけることが許されていました。

 刑が決まると、囚人は執行するローマの兵隊たちに渡されます。そしてローマの兵隊たちは、自分の手に渡された死刑囚に対して、どんな残虐な行為をすることも許されていたのです。むしろ、そのように囚人を痛めつけておいてから十字架につけた方が、十字架上での苦しみの時間が長引かずに死ぬことができる、これは慈悲なのだという理屈をつけて、その囚人を傷つけ痛めつけることが習慣になっていたのでした。

 「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた」(ルカ23:32-33)のです。

 イエス様は「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」(23:35)というののしりにも、何一つののしり返さず、ただ痛みに耐え、やがて、イエス様の口から出た第一の言葉が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)。
 何か事件が起きた時に最初に発せられる言葉というのは、その人の本音・本質が出るものです。十字架につくまでにイエス様の心にあったことが、この時に、言葉として吹き出したのだと私は思います。
ルカ23:34,35
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

第二に、イエス様が十字架につけられた理由が二つありました。
1つ目の理由は、「神さまを『父』」と呼んだ」ということです。
 ヨハネの福音書5章で、38年間床についたままの人を癒した後、イエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)と言われました。

 それを聞いた当時のユダヤ人たちは、イエス様に対して「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」(ヨハネ5:18)と言い、その時からイエス様を殺そうとするようになったと聖書に記しています。            
ヨハネ5:17,18
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

神様を父と呼ぶ習慣は、ユダヤ教にはありません。ユダヤ人にとって、神は恐るべきお方であり、「父」と呼ばず、「聖なる方」「全能の神」「万軍の神」と呼んでいました。神様を「天のお父さま」と呼ぶということは、まさに宗教界の大革命だったのです。

イエス様が十字架につけられた二つ目の理由は「赦し」です。赦したがために、イエスは十字架にかけられました。
 ゆるしには2つあります。その1、「許可」などで使われる「許」という字で、条件さえそろえば、誰でも許せることが、「許」の「ゆるし」の意味です。

 その2、「恩赦」「大赦」「特赦」などで使われる「赦」という字で、絶対に赦してはならないもので、法律で絶対にゆるせない犯人を、特別に赦す時だけ使う言葉なのです。
 アウグスティヌスは、「罪」の定義をいくつか挙げていますが、その中の一つに、「罪とは、赦してはならないもののことである」と定義しています。赦していいものは、罪ではないのです。本当の罪とは、絶対に赦してはならないものなのですから、罪を赦すと大問題になります。罪をゆるせば世の中に混乱が起こり、法律は役立たなくなり、無法の社会になるでしょう。ゆるせないから「罪」なのです。

 「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」(ヨハネ19:7)。
 神の正義を代表するユダヤの律法の社会では、絶対に罪の赦しはありませんでした。旧約聖書の中では絶対に罪は赦されません。赦すためには、痛ましい手続きがなければ、人の罪を赦すことはできません。
ヨハネ19:7
19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」

第三に、父なる神の痛ましい手続きです。
 神様はひとり子イエス様をこの世に遣わし、十字架につけるという痛ましい手続きによって人の罪を赦しました。その手続きを経なければ、神でさえ罪を赦すことはできないのです。もし罪を赦したら、神様は、正義ではなく不義の神様になってしまいます。
ですから、神様は無条件で罪を赦すということはなさいませんでした。罪は必ず裁かれなければなりません。呪われなければならないのです。それをイエスは赦したのでした。
イエス様の赦しは、仕方なしに、というものではありません。どんな罪人でも、姦淫の現行犯の女性でも、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言うように、出会いがしらに赦しています。
ヨハネ8:11
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕

 イエス様は、罪状を調べてから赦したわけではありません。明らかな罪人を一言で、会った瞬間にお赦しになっています。
 それは、当時の律法の中に生きていたユダヤの宗教家にとっては耐えられないことでした。なぜなら、自分の良心を満足させるために厳しい律法生活をしているのに、それでも自分達は、救われているか、赦されているかわからないというのに、イエス様は石で打ち殺されても文句を言えないような人に、いとも簡単に「あなたの罪は赦されました。」(ルカ5:20)と言われているのです。「何の権威があっておまえは人の罪を赦すのか」と言いたくなるのは彼らにとっては当然のことでした。               
 そのためにイエス様は裁かれたのです。イエス様が罪を赦すことをされなかったら、裁かれる必要はなかったのです。
ルカ5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

 人は、自分が加害者である時には、その罪の痛みがわかりません。被害者になって初めて、罪というものがどんなに恐ろしいものであるかがわかってくるのです。
 私達は、神様に対して加害者です。罪に気づかず平気で暮らしています。聖なる神様の御心をどれだけ傷つけているかわかりません。その加害者である私達のために、イエス様は十字架にかかられたのです。                                          

第四に、イエス様による罪の赦しとは、どのような赦しでしょうか。
 イエス様は十字架の上で、私達の罪の身代わりとなって死んで下さったゆえに、神は、私達の罪を赦して下さることができるのです。
 その1、イザヤ1:18に「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」とあるように、どんな罪も、すべて赦されます。イエス様の十字架上の血の代価は、制限も、限界もないのです。
イザヤ1:18
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

 その2、イザヤ44:22に「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。」とあるように、十字架の愛ゆえに、人を完全に赦すことができる赦しです。
イザヤ44:22
44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

その3、エレミヤ31:34に「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」とあるように、永遠の赦しです。カール・ヒルティは「眠られぬ夜のために」という本の中で、「赦すとは忘れ去ることだ」と言っています。赦すと言っても忘れていないのでは、赦したことにはなりません。赦しとは、すべてを忘れることです。
エレミヤ31:34
31:34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

人の罪を赦すということは、実に難しいことです。あきらめることはできても、赦すことはできません。自分が正しければ正しいほど、赦すことができません。神様は、痛ましい手続きを経ることによって人の罪を赦そうとされました。それが十字架の出来事であり、十字架は、私達の罪の赦しの保証であり、その土台なのです。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。この祈りは、彼らばかりでなく、神を神として敬わず、自己中心に生きてきた私達のためでもあります。また、その人を本当に愛し、赦していなければできません。それを成したイエス様は、ただの人ではありませんでした。そのお方を私達は心に迎え入れて歩む時、人を愛し、完全に赦すことができるのです。イエス様の「愛に根ざし、愛に基礎を置いて」(エペソ3:17)歩ませて頂きましょう。
エペソ3:17
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

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